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2008年10月12日 (日)

実学志向は自殺行為である

横浜の野中先生が「時代に合わなくなっている教員養成のシステム」と題して、教員養成課程の大学教育を批判している。教員養成大学がいまだに昔ながらの教養主義的なカリキュラムを組んでいて、担任学・教師学・実践学など、総じて現場に直接役立つような教育を施していない。だから、新卒教員はクラスにいる2,3人のやんちゃ坊主たちにいいようにクラスをかき回され、学級崩壊か崩壊寸前まで行くなんてことになってしまう。もっと初任者にきちんとした問題意識を持たせ、現状を知らせ、それに対する対処法を持たせなくてはならない。こういう論理である。

その例として、私も親交のある池田修(京都橘大学)や赤坂真二(上越教育大学)が開講しているような「学級担任学」「勇気づけ学級経営論」を挙げ、こういった実学的な講座こそ大切である、という。こういう現場の現実に立脚した講座が多くなれば、新卒教員に少なくとも「甘っちょろい思い」だけは払拭されていく。こう結論づける。

私はこれを読んで、野中先生ともあろうお人がなんという短絡的な発想に埋没しているのかといぶかしく思う。私も別に「学級担任論」や「勇気づけ学級経営論」の開講に反対しないが、こうした実学的講座を教員養成系大学のカリキュラムの〈主流〉にしていくことには断固反対である。

新卒教員がいまひとつ現場で働ききれないのは、私も確かだろうとは思う。しかし、それを大学教育を実学化すればよいと考えるのは短絡である。現在の教養主義的大学教育にしっかりと向き合えない学生にとっては、実学的な大学教育にはもっと正対できないものになるだろうと予想するからである。

確かに大学教育が実学的な講座を開設すれば学生たちは喜ぶに違いない。しかし、なぜ喜ぶかが問題である。それは現場に出てからこの素養があれば〈楽になるだろう〉と学生たちには想像されるからである。だが、頭で実学を学ぶことと、現場で、その渦中にいる者として現状に対して行くこととの間には、天と地ほどの違いがある。実学だけを学んだ学生が現場に出て、その教養の欠片もない実学頭で、習ったこと以上の事態に遭遇したとき、その学生はいったいどうなるのか。結局はこれまでの教養主義的大学教育と現場的現実との間のギャップと同じことが起こるのではないか。いや、基礎教養が現在よりも少なくなるので、現在以上に打開策を講じる基礎教養が少なくなってしまっているのではないか。

実学を悪いとは言わない。

しかし、実学はあくまで、学問の中では〈恥ずかしいこと〉〈隅っこ〉〈二流〉〈亜流〉という位置づけを施しておくべきものであって、それを〈主流〉にするのは間違いである。実学的なことを講義で学んでも頭で理解するだけ、エピソード的に学んでも感動するだけ、体験実習的に学んでも結局は他人のふんどしで相撲をとる中途半端なものになるだけ、どれもこれも学生たちを〈勘違い〉に陥れるだけである。

私は最近の教員養成系大学から現場に対応できない教員が輩出されるようになったのは、大学教育が「時代」に迎合し、怯え、実学的志向を高めすぎたためだと考えている。大学は「卒論」の他に「教養論」として2年の終わりにも200枚程度の論文を課すとか、ダンスでも歌でもスポーツでも文学でもなんでもいいから、つまりはその学生自身のに生の日常生活に直結した課題について、1年間でみっちりと体験し分析する、というような体験学習を取り入れればいいと思う。

例えば、1月のダンスイベントに向けて基礎体力づくり、練習の積み重ね、ダンスイベントの企画・運営、チケットの売買、ちらしの配布、イベント当日の運営、打ち上げの飲み会、反省会、分析、反省レポート執筆というような流れで、半年から1年間、自分の生活の中心をそれにしてしまうような生活を送らせるのである。それを2年次に設定する。これが無理なら、教養課程修了のために「教養論文」を必須とするでもいい。

かつて、卒業論文というものはそういうものだった。現在、卒論は日常生活を変えることなく書ける程度のものになっている。それがいけない。大学はいい年をした若者が4年もの長きにわたって過ごす場所である。4年間で2度、自分の生活のほとんどをかけなければ成り立たないようなものに取り組むくらいの心意気が欲しい。

実は、学校現場に限らず、「現場」とは、自分の生活の中心をそれにしなければ成り立たない、そういう場所である。何かトラブルが起こったときに、全人的にそのトラブルを解決しようと取り組むからこそ、現場は混乱することなく成立するのだ。そしてその全人的な取り組みがあるからこそ、トラブル解決の道筋を定め、トラブル解決のアイディアを思い浮かべ、トラブル解決の行動を起こせるのである。こうしてトラブルの多くは解決していくのだ。最近の若者にはその姿勢が欠けているのである。

そんな若者たちに教育の〈主流〉として実学を施すことは、当の学生たちにとっても、彼らを受け入れる現場にとっても、結果的にプラスにはならない。

大学教育の実学志向は自殺行為である。

実学とはあくまでも〈当事者性〉によって支えられている。既に教員となっている〈当事者〉が日常の研修カリキュラムに位置づけるとか、学級崩壊を起こしてしまった現場の〈当事者〉が再教育の過程で受けるカリキュラムとして位置づけるとか、そうした〈当事者〉の研修方法として位置づけられるべきものだろう。

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