〈原罪〉と〈幻想〉
昨日今日と二日連続でわいせつ教師逮捕のニュースが流れた。「またか…」という思いを禁じ得ない。最近はこういうニュースにも少々慣れてしまったところがあって、ぼく自身も世論も感覚的に麻痺してきているようだ。さすがに去年の秋のように現役教頭となるとショックが大きいが(しかもあの事件の現場は札幌だった)、普通の、と言ってはなんだが、最近は一般的なわいせつ事件では驚かなくなってしまっている。そんなぼくでも、今回は二日連続の報道ということで少々驚いてしまった次第である。
今回は二件とも、教え子に対するわいせつ行為だ。一件は埼玉県の小学校教師(56)の小1女児へのわいせつ行為、もう一件は東京都の高校教師(52)の高3女子生徒へのわいせつ行為である。高校教師の方は論文指導と称してホテルに連れ込んだというのだからあきれる。
ぼくが今回このわいせつ事件について語ろうと思ったのは、実は二日連続で教師が逮捕されたことだけが理由なのではない。去年の現役教頭もそうだったが、今回の二人も年齢が五十代なのである。「五十路にもなってなんなのだ」というのは簡単だが、ちょっと考えてみようと思った。
ぼくは現在42だが、四十路を迎えて声を大にして言いたいことは、若い頃に漠然と感じていた「年齢を重ねるとともにアイデンティティが獲得され、次第に小さなことで頭を抱えたりくよくよしたりすることが少なくなっていくのだろう」という〈大人のイメージ〉はすべて嘘っ八だった、ということである。ぼくは15のときも25のときも35のときも、小さなことに頭を抱え、ほんの些細なことにもくよくよし続けてきた。そして42の現在も同様に頭を抱えくよくよしているのだ。
いま目の前にいるぼくの教え子たちも、もしかしたら大人になれば悩むことからも孤独感からも解放されるのではと幻想を抱いているかもしれない。しかし、ぼくらは彼らより少しだけ先の人生を歩む者として、「それは幻想だ。中年になったってその苦しみからは解放されないよ」と〈ほんとうのこと〉を語ってあげなければならないのではないか。むしろきみたちも経験してきた小学校時代とか、それ以前の幼少時時代のほうが悩みのない幸せな時間だったのだと。〈大人幻想〉は文字通り〈幻想〉だよと。15のときに「25になれば…」、25のときに「35になれば…」、35のときに「45になれば…」なんて未来に精神の安定を期待するのは、〈人生のからくり〉に過ぎないと。
そしておそらく、50になっても60になっても70になっても、この〈かにくり〉はまさしく〈からくり〉として機能し続けるのだろう。保護者を見ているとわかってくることがある。十代で子供を産んだ若い母親も、適齢期に子供を産んだ一般的な母親も、高齢出産でやっと子供を与ったという還暦に近い母親も、みんな子育てで同じように悩んでいた。いや、年齢が高くなればなるほど、悩みは深いようにさえ思えたほどである。それが現実だ。
おそらく今回の二人の教師も悩み戸惑いながら教員人生を歩んできたのだろう。56歳といえば全共闘に乗り遅れた世代である。52歳といえば足下から湧き上がってくる新人類世代におののいた世代である。いずれも世代的アイデンティティをもちにくかった世代と言われる。本当か嘘かはぼくにはわからない。しかしそういう実感を語る人間たちと同じ世代ではあるということだ。彼らはどこか時代に乗り遅れた、中途半端な世代なのかもしれない。
こういう決めつけに何の意味もないことをぼくも知っている。けれども五十代前半に心の病による休職者や自殺者が多い現実なんかを見ていると、彼らのメンタリティには、ただただバブルを謳歌した楽観的なぼくらの世代にはわからない、〈原罪〉のごとき感覚が巣くっているように見えるのだ。
そこに現れたネット社会、高度情報化社会である。ビデオもDVDもインターネットも、ある観点から見れば「人々がもともと持っていなかった欲望を、人々にもともと持っていたかのように錯覚させ、その錯覚的・幻想的欲望をどんどん拡大増殖させる」メディアである。去年のわいせつ教頭も含めて、模糊とした〈原罪〉意識を持ち、孤独で、世代アイデンティティが拡散しているおじさんたちは、 この構図にまんまと引っかけられてしまったのだろう。こんな構図に引っかけられて、この世界には存在しない〈幻想〉と自分の具体的な〈現実〉との狭間に生きるようになってしまったのである。「おじさんを愛してやまない女子高生」や「おじさんの躰をさわって性に目覚める少女」なんていう馬鹿げた幻想は、エロビデオとエロサイトの中にしかない。
昔から少女幻想は川端康成や谷崎潤一郎が描いてきたし、老いと性欲の問題は伊藤整や中村真一郎が描いてきた。しかし、彼らの行為にはそういった〈耽美的な性〉の欠片もない。「論文指導とラブホテル」にしても「小1女児に対する性的幻想」にしても、想像力というにはあまりにも表層的なレベルで構築されたインターネットや映像メディアによる負の産物である。比喩的に言えば、かつての「にっかつロマンポルノ」にあったロマンが欠落しているとでもいおうか(笑)。
この二人がそうだとは言わないが、ネットをはじめとする今日のメディア社会は、そうと自覚しないままになんとなく他人に流されながら生きてきた、免疫のない善良なおじさんたちを、次々に「性的欲求を増幅させ続けるエロじじい」や「小さな差違に敏感になったルサンチマンじじい」へと変容させていく。
いずれにしてもいい年にもなって馬鹿げた罪を犯してしまったのだから、法的には自分で責任を取り、法を超えたところに現れる家族や世間やなんやかやの取りようのない責任に怯えながら生きていくしかない。同情はしないが切なさは残る、そんな事件である。
| 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

最近のコメント