経済・政治・国際

2008年10月 1日 (水)

議論の作法

代表質問。小沢一郎民主党代表が自らの代表質問、麻生総理の答弁が終わった時点で、15分ほど議会の席を立って休憩に行ったらしい。それに腹を立てたのか、ちょうど代表質問に立っていた細田官房長官が小沢代表の批判をNo原稿で始めたらしい。

いわく、小沢代表がかつて自民党から離脱した折、いっしょについて行き、現在自民党に復党している議員が15名いる。彼らは「もう小沢政治はこりごりだ。自由な自民党が一番いい」と言っている。こういう発言だった。ぼくはこれを、報道ステーションで〈編集された映像〉で見たので、前後の文脈がわからない。この番組はかなり際どい編集をすることで有名である。しかも、風呂上がりにビールを一杯、という見方でもあったので、発言するには少々心許ない情報で発言するのを知った上で書く。少なくとも映像として残っているのだから、この発言があったことだけは確かであるからだ。ぼくがいかに書く批判はそれだけで十分なのだ。

ぼくはこの発言は問題だと思う。ここで細田官房長官が批判しているのは「小沢一郎代表の人となり」であって、「民主党の政策」や「民主党代表としての小沢一郎氏の発言」ではない。これは国会の発言としてふさわしいのだろうか。「ここで中座するのは失礼だろ」と、小沢氏を瞬時に叱責したのであればまだ話はわかる。場の論理に規定された、「生もの」としての発言になるからだ。しかし、細田官房長官の発言はそうではない。90年代前半の、既に15年も前の出来事を話題に挙げ、その意味・意義の批判でもなく、小沢氏の言動に対する批判でもなく、かつて小沢氏の周辺にいた人物による伝聞によって、なんの論証もなく、人間批判をして負のイメージを喚起しようとしたのである。しかも国会で…。国会でである。しつこいようだが、いいですか? 「国会」でですよ。

公の会議の場でも他人にの人となりを批判することが許される…そんなコンセンサスがこの国でいつ得られたのか。

これが認められたら、地方議会も、会社の会議も、町内会の会合も、学校で言えば職員会議も学級会も、すべての議論の場が崩壊してしまうではないか。議論をする上での根本的な規範が崩壊してしまうではないか。

ぼくは別に小沢氏や民主党を支持しているのではない。自分の代表質問が終わった途端に休憩に入る小沢氏は責められて然るべきだし、細田官房長官が腹を立てるのもおかしなことではないだろう。しかし、しかしである。その問題と〈議論の作法〉の問題とは別の問題である。いくら腹を立てても、やっていいこととわるいことがある。公の会議というものは「言いたいこと」を言うのではなく、あくまでも「言うべきこと」をこそ言わねばならない。少なくともぼくは生徒たちにそう指導している。それが〈議論の作法〉である、と。

その昔、学校教育にディベートが盛んに導入され始めた頃、様々な批判があった。批判の仕方はいろいろあるが、要は二つである。①子どもが本当に思っていることではないことを、議論の練習だと言って主張させるのはおかしい、②ディベートで議論の練習をしても口先人間をつくるだけである、という二点である。

ぼくは現在ディベート教育に賛成の立場をとるけれども、ここでディベート教育の良さを主張するつもりはない。しかし、今週に入ってからの国会は、どうもこの二つの批判がまるまんま当て嵌まる議論になっているようだ。〈本当に思っていること〉を〈強い口調で主張すること〉が国会を盛り上げ、国民に政策を訴えることになり、活発で良い議論になる、という馬鹿げた風潮に縛られているのではないか、ということである。つまりは政治家が、〈本当に思っていること〉を言う口先人間に成り下がっているのである。それが相手の人となりを批判しても良いのだという空気を無意識のうちに作り出しているのではないか。言っておくが、今日の細田官房長官の発言は「批判」ではない。「非難」である。「人格に対する非難」である。小学校の学級会でさえ先生が絶対に禁じる、議論の前提の前提を侵しているのだ。公の議論における「禁じ手」を、恥じることなく、堂々と展開したのである

そして、何度も何度も繰り返すが、それが「国会」で行われたのだ。いいのか、これで。

一年前、昨今の子供たちには規範がない、学校教育が毅然とした指導を行えるように、そう教育基本法改訂に力を入れた首相が政権を放り投げた。そして今日、官房長官が小沢一郎という政治家個人の人となりを「国会」で非難した。彼らは自分たちが、国民の、そして子供たちのモデルになっているということを自覚しなければならない。

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2008年9月28日 (日)

前略、中山成彬様

おもしろいもので、中山成彬前国交相が批判したことで日教組が俄然注目を集め、その反論が注目され、ネット普及以来の検索の多さを数え、結局は日教組に追い風が吹いている。この流れの中で今後も中山前国交相が公に批判すればするほど、中山前国交相の意図に反して逆効果になっていくだろう。

しかし、(ぼくは組合員じゃないので言いづらいのだが、)まあ教職員の内部にいる人間にいる一人として言わせてもらえば、中山さんが考えているほど日教組にはもう力がない、と声を大にしたい。そんなにムキにならなくても、中山さんが「ぶっ壊そう」としなくても、先細りしていきますからご安心を。こういうふうに日教組に注目を集めることの方が、日教組にとってはかえってプラスになっているのではないか、そんなふうにさえ思える。

ただし、一つだけはっきりさせておきたいのは、教職員の「がん」は組合員か非組合委員かということとはあまり関係がないということである。非組にもひどいのはいっぱいいるし、組合員にも優秀なのはいっぱいいる。そんなのどこの組織でも同じである。○○という組織に属しているから優秀とか、△△という組織に属しているから優秀ではないなどということは原理的にあり得ない。

確かに日教組は法的に認められていないとはいえ労働組合だから、教員の労働条件を適正な規模にしようという運動はする。それがときに、「もっと楽にならないか」と適正規模を超えて労働条件を自分たちが必要以上に得をする方へともっていこうとする場合もあるだろう。しかし、そこは多くの人間が所属する組織である。「そこまでやっては世論の理解が得られないのでは」という政治的判断ができる人間や、「それは子どもたちにとってプラスにならないのではないか」という教育的判断ができる人間もちゃんといて、世論の動向をうかがいながら、行政との折衝でそこそこのところに落ち着くようにできているのである。

一方、非組側の人間たちの中にだって、子どもの側ではなく学校長や行政のほうばかりを見て、まったく教育的でない「学校内政治」ばかりにうつつを抜かしている輩もたくさんいるわけで、これなんかはその辺の組合員よりもずっと害悪を重ねていると言っていい。

結局、人間だれしも、自分のことを第一に考える。できるだけ楽な労働条件でできるだけ多くの報酬を求めたいという「自分のこと」もあれば、校長や行政にこび売ってでもなんとか早く昇進したいという「自分のこと」もある。なんのことはない、学校教育に限らず、「社会のがん」にならない人間というのは、その「自分のこと」を考えるときに、「子どもたちのため」とか「保護者のため」とか「同僚のため」とか「学校のため」とか「社会のため」とかも同時に考えて、自分が所属する共同体と「自分のこと」とのバランスをとろうとする人間なのだ。つねに頭の中で「自分のこと」と「自分を包む公」とのせめぎ合いをおこなっている人間、それを我々は「優秀な人間」と呼ぶのである。

そういう人間は組合員の中にもいるし、非組合員の中にもいる。言わなくても当然のことだ。そしてこれができない「社会のがん」だって組合員にもいるし非組合員にもいるし、もっと言えば校長や指導主事の中にもいる。そんなこと、人間の集団なのだからあたりまえのことなのである。

でも、そんななかでみんな頑張っているのだ。あの人は優秀だからこれだけやってもらわねばならない、あの人は能力的にそこそこだろう、あの人はちょっとポンだからみんなでフォローしなくちゃね、などなど、そうやってこの国の組織というものは動いてきたはずではないか。その組織構造はいまだって何も変わってはいない。そしてそういう国民性を我々はなんだかんだ言っても愛し続けているのではないでしょうか。

中山さんだって、その手の愛情をもっているからこそ「単一民族国家」なんて言っちゃうわけでしょ? ぼくは北海道に住む人間として、また小中学校時代にアイヌの友達と机を並べてきた人間として、こっちの発言だけは違和感をもたざるを得ません。「ごね得」発言はまあご愛敬でしょう。中山さんの辞任会見の開き直りだって、この騒ぎがおさまってしまえば「ごね得」になるはずですよ(笑)。

まあ、ぼくも組合やめてますから、そう言いたくなる気持ちはわからないでもありませんけどね。あんな上品な奥さんをおもちなのですから、どうぞお幸せに。

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