教育

2008年12月11日 (木)

ABC

昨日のボーナス支給日。他の地域にとっては何をいまさらではあろうが、札幌市では今回のボーナスから教員評価がボーナス額に反映された。産出額を50万とした場合(まあ、40歳くらいの人と思ってもらえばいい)、評価BならCに比べてプラス3万、評価Aなら更にプラス3万、ということになる。評価Bなら3万円、評価Aなら6万円、それが仕事を評価されたことの代償である。それに比べて、評価Cなら、これまでに比べて1万円程度の減額、ということになる。

今回の措置、実はすべての職員のモチベーションを下げたのではないか、そんな気がする。

まず、評価Cをもらった大多数の教員。彼らのモチベーションが下がったであろうことは言うまでもないだろう。「自分はどうせCの教員なんだ」「あんなに頑張ったのにCか」「へへへ、うまいことさぼってきたからしょうがないけれど、もうCをもらって給与格差までくらったんだから、いままで通りでいいっていうお墨付きをもらったようなものだ」などなど、具体的にどう思うかはいろいろあろうが、いずれにしても「これまで以上に頑張って評価を上げなくちゃ」と思う人間はほとんどいないだろう。中には「自分はCだ。もうよけいな仕事はしないぞ。これまで自分が善意でしてきたような仕事は、AやBをもらって金を多くもらったやつがやればいい」なんて思う輩もいるに違いない。

では、AやBと評価された教員はどうか。まあ、あまりここに詳しくは書けないが、私から見れば、AやBをもらっている教員たちは確かに頑張って働いており、能力も高い。管理職や市教委がそれほどいわれのない評価をしているわけではない、少なくとも私にはそう見える。(言い訳がましいが、これは勤務校のことを言っているわけではない。私は勤務校で誰がどのような評価を受けているのかを知らない。)おそらく、少なくとも相対的に評価すれば、妥当な評価が行われていると見てよい。

しかし、問題は金額である。A教員やB教員は、C教員に比べて、実はべらぼうな仕事量をこなしている。生徒に学力をつける授業を日常的に研究し、生徒指導に奔走し、教育課程の編制に努力し、学年・学校経営のシステムづくりやPC環境のメンテナンスにまで配慮して同僚が仕事をしやすい環境づくりに気を遣っている。そして、その代償が3万円とか6万円なのである。いわゆるボーナスが半期に一度支給されることに鑑みれば、イメージ的には月に5千円~1万円ということである。

これはもらった側の心象としては複雑なものがある。これまでのように給与格差がない状態ならば、それは仕事の量の違いも仕事の質の違いも、個人の能力の問題となり、自分は能力が高いのだから能力の低い人間ができないことまでやらなければならないのだ、そうして組織ってのは動いていくもんなんだからしょうがない、という論理で自らを納得させることができる。こうしたプライドをもつことが、次の仕事に対する意欲にもつながっていく。

しかし、現実にその仕事の差が金額として半年で3万円、半年で6万円という形で具体的に出てしまうと、自分の頑張りが値踏みされているという印象をもってしまう。更には、自分が現実に被っている仕事上のストレスのほとんどが、他人に対するフォローであることに鑑みれば、この3万円、6万円を捨てれば、他人のフォローをしなくてもいいのではないか、独善的な仕事ぶりが許される立場になるということではないのか、そういう悪魔の囁きも聞こえるようになる。月に5千円~1万円を捨てれば、家でナイターを見ながらゆっくりとビールを飲む時間が確保できるようになるのではないか、土日に趣味に興じることができるようになるのではないか、そういう日々を想像しない者はおそらくいないだろう。中には「よし、これからは一般教員よりも3万円分程度だけ多く働くことにしよう」「プラス6万円ってことは、このくらい働けば十分だろう」なんていう思考をする者もいるかもしれない。

結局、すべての人間が自分の能力を最大限に生かして働こうという意欲を減退させてしまうのではないか。私はそれを怖れる。

これを打開する手立ては二つしかない。一つは給与格差をなくしてもとの状態に戻すこと。そうすれば、再び、鍋ぶた組織が機能し始める。そしてもう一つはもっと格差を広げることである。C教員から3~5万円程度マイナスし、B教員にはプラス10万、A教員にはプラス30万といった格差をつけることだ。ここまで差がつけば、A・B教員もある程度納得する。自分の仕事量に見合った報酬が得られていると感じられるからだ。

では、どちらがいいか。

答えは簡単である。明らかに前者だ。後者はA・B教員のモチベーションを高めたり維持したりはできるだろうが、C教員のモチベーションは更に落としてしまう。そうすると、A・B教員がいくら意欲をもって仕事をしようとしても、それにいっしょについて来るC教員が激減することになる。言うまでもなく、いくら能力が高いと言っても、仕事のほとんどは一人でできるものではない。C教員のモチベーションが下がれば、A・B教員のパフォーマンスも下がってしまう。しかもそれは急降下する。目に見えてA・B教員のパフォーマンスが下がるのに、おそらく半年とはかかるまい。

さて、私は校長や教頭を批判したいのではない。市教委を批判したいのでもない。彼らは口が裂けても言わないだろうが、校長だって市教委だって、今回の措置をやりたくてやっているわけではない。だれが好きこのんで他人の生活にマイナス影響を与える施策をやりたいなどと思うだろうか。彼らだってできればやりたかないに決まっているのだ。そして彼らも、これまで通りのほうが学校をよく機能させられるだろうと思っているに違いないのだ。ほんのひと握りの不適格教師を除けば、教師と呼ばれる者たちが善意でこそ動くのだということを、管理職の誰もが、そして市教委の誰もが知っているのである。

国の発展が止まり、国が貧乏になり、それでも能力のある者、意欲を持つ者に報いようとするとき、現場も、現場責任者も、地方行政も、みーんなせつない思いをせざるを得なくなる。みーんながせつない思いをすればするほど、かつては多様だった物事の価値観が「金」に収斂されていく。基準が「金」に収斂すればするほど、みんなのせつなさが増幅する方向へと舵を切らざるを得なくなる。それしか政策がなくなってしまう。まったくせつない世の中である。

今日、1週間振りにガソリンを入れたら、リッター109円だった。ちょっと嬉しかった(笑)。まったくせつない世の中である。

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2008年11月25日 (火)

「教師力BRUSH-UPセミナーin旭川」のご案内

私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナーin旭川」のご案内です。今回も子ども・保護者、そして教師を取り巻く環境の変容をテーマに行います。お誘い合わせのうえ、ご参加いただければ幸いです。お申し込みはこちらまで。

第16回教師力BRUSH-UPセミナーin旭川
主催:教師力BRUSH-UPセミナー
後援:北海道教育委員会

教師を取り巻く「子供」「保護者」「世論」が変わってきています。その変わってきているものに対して、私たち教師が変わらずに対峙していかなければならない側面もあれば、変わっていかなければならない部分もあるのではないでしょうか。

第16回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌は、このような状況の中の「教師の置かれている立場」にスポットをあて、そんな状況に対応できる「教師力アップ」のためのセミナーです。共に学びましょう。たくさんの参加をお待ちしております。

日 時:12月6日(土)
9時50分より/場 所:旭川市勤労者福祉センター
参加費:3000円(学生は1500円)

9:20 受付 9:40 開会セレモニー

9:50~10:50 「対話型ワークショップ」その1
WS1…南山潤司(札幌市立南小学校)、高橋裕章(札幌市立真駒内緑小学校)、山口淳一(札幌市立藻岩北小学校)
「モンスターチルドレン/ペアレンツへの対応」
WS2…大野睦仁(札幌市立厚別通小学校)・石川晋
「学級通信で子どもの心をつかむ」
WS3…太田充紀(名寄市立智恵文小学校)・高橋和寛(芦別市立啓成中学校)・森寛(札幌市立向陵中学校)
「これだけは身につけたい授業技術」
WS4…藤原友和(函館市立戸井西小学校)、梶倫之(幌延町立幌延小学校)、山下幸(札幌市立上篠路中学校)
「事例で語り合おう。なぜ、教師は苦しむのか」

11:00~12:00 「対話型ワークショップ」その2
WS5…堀裕嗣(札幌市立上篠路中学校)、森寛、山下幸
「ロールプレイ・小学校にも必要な<中学校型生徒指導>のイロハ」
WS6…大野睦仁、平山雅一(三笠市立三笠中央中学校)
「学級に潤いをもたせる<グループ・エンカウンター>」
WS7…高橋正一(枝幸町立岡島小学校)、山寺潤(厚沢部町立美和小学校)、山口淳一
「授業を支えるシステム~ノート指導・発言指導・グループ討議」
WS8…湯藤瑞代(北海道紋別養護学校)、梶倫之、石川晋
「特別支援教育コーディネーターの役割」

13:00~14:15 「対話型ワークショップ」その3
WS9…南山潤司、高橋裕章、山口淳一
「学級崩壊の兆し・チェックリスト/いまからできる3つの手立て」
WS10…小泉幸男(旭川市立東町小学校)、大野睦仁、山下幸
「今日的課題を扱う道徳授業」
WS11…佐藤美貴(旭川市立陵雲小学校)、太布智子(深川市立深川中学校)、堀裕嗣
「全員参加を保障する授業技術」
WS12…梶倫之、湯藤瑞代
「特別支援教育・5つのポイント」

14:30~15:45 「対話型ワークショップ」その4
WS13…小泉幸男、小林智(旭川市立旭川第二中学校)、高橋裕章、堀裕嗣
「<いじめ指導>の極意」
WS14…鈴木将之(札幌市立簾舞小学校)、高橋和寛、南山潤司、山下幸
「学級がうまくいかない/いまからできる手立て」
WS15…藤原友和、大野睦仁、森寛
「<活用力>を高める読解指導/PISA型読解力」
WS16…高橋正一、山寺潤、石川晋
「小規模校に必要な教師力/3つのポイント」

16:00~16:45
シンポジウム「いま、必要な教師力/教師の力量形成・3つのポイント」
司会…森寛
シンポジスト…大野睦仁/高橋裕章/高橋正一/堀裕嗣/石川晋

16:45 閉会セレモニー

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2008年11月23日 (日)

ログイン。ログオフ。

しばらく振りの更新である。

更新が滞り始めた要因はひとえに、学校祭・合唱コンクール・20周年記念行事に専念しなければならなかったというきわめて物理的なものなのだが、それらはすべて10月中には終わっていたのであり、ここまで滞ったことの理由にはならない。人間、楽な状態に慣れてしまうとその物理的な要因が取り除かれたあともなかなか元のペースに戻ることができないということか。これを「怠惰」という者もいたし、「堀さんのブログを楽しみにしているのに最近更新されませんねえ」などと実に好意的な脅迫を寄せてきた者もいた。いずれも、私にとっては迷惑な話である。

私には「書斎日記」を更新し続けなければならない社会的責任などないのだし、これに比して、学校祭・合唱コンクール・20周年行事に対しては、私には専念しなければならない社会的責任が課せられている。どちらを優先すべきかは火を見るよりも明らかな話である。

私はこの「書斎日記」を勝手にアップしており、読者の皆さんはこれに勝手にアクセスしている。アップするか否かの是非は私が握り、アクセスするか否かの是非は読者が握っている。そういう関係である。私のHPが「価値なし」と判断すればアクセスしなければいい、私に社会的責任が生じていない以上、私にはこのように言う権利がある。

しかし、この構図が現在、公務にも見られる。これが多くの教師を悩ませている。

現在、授業においても生徒指導においても学校行事においても、教師の指導が下手だった場合には、生徒たちがすぐにログオフしてしまう。主導権が教師にではなく、生徒にあるという状況が生まれつつある。もちろん、現実の指導場面においてはまだまだ教師に主導権がある場合が多いのだが、少なくとも言論状況においてはログイン・ログオフの主導権が生徒の側にあるかのような言論が主流を占めつつある。そこでは、教師に社会的責任があるが故に、「アップするか否かの是非は教師が握り、アクセスするか否かの是非は生徒が握っている」と言ってはならない。生徒にアクセスしてもらえないのは、ひとえに教師の指導力が足りないのであり、教師の努力が足りないのである。

さて、この論理に我々教師はどう立ち向かっていけばよいのか。

基本的には〈快〉を提供し続けることである。言い換えるなら、生徒たちに過剰なストレスを与えないようにコントロールし続けることだ。現在の生徒たちは(おそらく大人も)長時間の〈不快〉には耐えられない。

すると、例えば、次のようなことが必要になる。

まず第一に、すべての学習活動をわかりやすくすること。学習活動に取り組むには、その学習が自分にとって重要であると生徒が実感できるような〈物語〉が必要になる。この〈物語〉が複雑ではいけない。単純化され定型化されたものでよい。ワンフレーズでズバッと説得することが必要になる。

第二に、学習活動の規模を徹底的に縮小すること。例えば、合唱コンクールの練習を本来なら毎日1時間から1時間半行うところを、一日30分とする。その代わり集中して取り組もうと告げる。こうした論理だ。この手の論理に対して、現在の生徒たちは肯定的に反応する。

第三に、薬物のごとき強い「快-感動」を与えることであろう。もちろん学校教育の中で薬物のような快楽を与えることは不可能である。しかし、努力・忍耐・協力といった学校文化だけで現在の生徒たちがコントロールできると考えるならば、それは時代錯誤と言わざるを得ない。あくまでも時代に即応した、現代的な〈快〉を提供しなければならない、少なくともそれを教師が希求しなければならない、そういう時代に入ったのだ。

そろそろ学校教育にも、こうしたことを考えての、具体的には生徒たちにログオフさせない環境を整備しながら、一年間を、或いは三年間を巨視的に捉えながら学校文化に少しずつ巻き込み、慣れさせていく、そのような新たな権力の在り方が必要とされているのではないか。そんな気がする。

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2008年10月20日 (月)

相手の立場・心情を想定する

1.相手の立場に配慮しないネットコミュニケーション

かつて,米国の掲示板サイト(アメリカYAHOO!)において,一人の心ない日本人の書き込みが米国人を激怒させたことがあった。掲示板参加者の怒りのレスポンスは当日だけで数千件に及んだと言う(1)。

【資料A】
------国際貿易センタービル倒壊は笑えた!/ビルが折れるごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー片方粉砕!よーし次はもう片方もーって)/でも結局はみんな避難したんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/国際貿易センタービル倒壊は笑えた。まじで。/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)

これが「アメリカYAHOO!」の掲示板に書き込まれたのは2001年9月12日。折も折,9.11テロの翌日だったのである(ただし,本文は翻訳ソフトを用いての英文である)。

さて,この書き込みは,2ちゃんねるのいわゆる「コピペ」と呼ばれる形式で書き込まれたものだった。コピペとは「コピー&ペースト」の略語で,鈴木謙介によれば,2ちゃんねるでは「書き込みのテンプレート」のことを指すと言う。その機能は「相手に対する揶揄であると同時に,それがそもそもテンプレートであるがゆえに場の雰囲気を『茶化す』」ことにもなると言う。つまり,内容的な茶化しと形式的な茶化しとを同時に成立させる,2ちゃんねる特有の修辞であるというわけだ。

テンプレート化するに至るもともとの書き込みは以下である。

【資料B】
------阪神大震○は笑えた!/死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)/でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/阪神大震○は笑えた。まじで/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)

「アメリカYAHOO!」では,2ちゃんねるに詳しい日本人が,米国人参加者に対して「この書き込みが日本の匿名掲示板に特有の書式であること」「投稿者を無視して欲しいこと」を訴えたが,事態が収束するはずもなく,米マスコミでも報道されるに至った。

この事件は,日本人の「2ちゃんねる」的な匿名性が及ぼす軽薄さ,モラルハザードが巻き起こした国際的な騒動として,記憶しておく必要がある。もちろんこれを読んで怒りを覚えるのはアメリカ人ばかりでなく,多くの日本人が見ても,被害者の立場や心情に思いの至らない下品な記述に怒りを覚えることだろう。

ただし,このような軽薄さ,下品さこそが,昨今問題視されている学校裏サイトや掲示板等に見られる,生徒たちのコミュニケーションの粗雑さと通底していることは確かである。
 
2.生徒のネット体験の掘り起こし

資料A・Bを題材として,以下のような指導計画を立てて授業実践(中学校3年生/国語科)をおこなった。※道徳での実践も可能と思われる。

【第1時】
①資料Aを配布し,この文章の問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③各グループに発表させ,板書にまとめる。
④資料Bを配布し,資料Aが2ちゃんねる特有のテンプレートで書かれていることを説明する。
⑤4人グループに資料A・Bを対比させ,更に問題点を交流させる。
⑥各グループに発表させ,板書にまとめる。
⑦各自に200字感想を書かせる。
※次時,携帯電話を所持している者は持参することを確認。

【第2時】
①インターネット上の資料(学校別掲示板から抜粋したもの。自校のものは避ける。)を配布し,問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③持参した携帯電話の着信メール,自校の学校別掲示板等から同様の問題点をもつメールや書き込みを探す。
※携帯電話をもっていない生徒には,インターネット上の学校別掲示板から抜粋した資料(10種類程度)を与えた。
④見つけたメールや書き込みを引用しながら,その問題点について800字で論述する。

第1時の資料Aを題材とした問題点の交流では,主に内容的な問題点が挙げられる。「多くの被害者を9.11テロに対して,こういう書き込みはひどい」「日本人として恥ずかしい行為である」といった感想をはじめとして,「他人の不幸を笑いものにしている」「不幸な事件を題材と資することで優越感に浸っている」「国際問題に発展してもおかしくないほどに,読み手がどうとらえるかに配慮されていない」などいった問題点が出された。ところが,資料Bを配布すると,内容面ばかりでなく,インターネットの危険性について主に技術的な側面の問題点が検討されることになる。「簡単に素早く文章をつくれるから,深く考えないで書いてしまう」「瞬時に無限の相手に対して一斉に送ることができてしまって,具体的な相手について考えづらい」といった問題点が挙げられた。特にインターネットで誹謗中傷する場合,内容的な引用ばかりでなく,フォーマット自体の引用(テンプレートの引用)が瞬時に可能であり,それがインターネット上のコミュニケーションに独特の「空気」を産み出していることが生徒たちにも実感される。

その結果,インターネットコミュニケーションについて,①読み手の立場・心情を思いやる気持ちが必要であること,②読み手の置かれている文化のレベルまで想定しなければ資料Aのような国際問題に発展しかねない危険性をもっていること,③簡単にメッセージがつくれ,瞬時に複数の相手に送信できることから,内容をよく考えるということが蔑ろになりやすいこと,という3点について教師が説明した。こうしたことを勘案しないと,インターネット上のコミュニケーションはとれないのだという趣旨である。

第2時の生徒のレポートについては,個人情報保護の観点からここでは公開できないが,授業においても生徒に書かせるレポートにおいても,引用文の匿名性を担保することが大切である。ハンドルネーム(インターネット上のニックネーム)でさえ書かせようとしてはいけない。また,レポートを交流させてのフィードバックも避けた方が良い。生徒個々にとって,かなり微妙な問題をはらんでいるだけに,教師はできる限り心理的抵抗を和らげることに腐心しなければならない。文明の利器に伴う問題,生徒に現在起こっている問題の教材化は授業づくりにも大きく影響を与えている。

【注1】『RUNAWAY 暴走するインターネット』鈴木謙介/イースト・プレス/2002年9月/p35~40
※資料A・Bの全文についても同書を参照されたい。

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2008年10月19日 (日)

「教師力BRUSH-UPセミナーin札幌」のご案内

私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナーin札幌」のご案内です。今回は子ども・保護者、そして教師を取り巻く環境の変容をテーマに行います。お誘い合わせのうえ、ご参加いただければ幸いです。お申し込みはこちらまで。

第15回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌
主催:教師力BRUSH-UPセミナー
後援:北海道教育委員会・札幌市教育委員会

教師を取り巻く「子供」「保護者」「世論」が変わってきています。その変わってきているものに対して、私たち教師が変わらずに対峙していかなければならない側面もあれば、変わっていかなければならない部分もあるのではないでしょうか。

第15回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌は、このような状況の中の「教師の置かれている立場」にスポットをあて、そんな状況に対応できる「教師力アップ」のためのセミナーです。共に学びましょう。たくさんの参加をお待ちしております。

日 時:11月1日(土)
9時25分より/場 所:白石区民センター
参加費:3000円(学生は1500円)

9:15 受付/9:25 開会セレモニー

9:30~10:20 基調提案型セッション
事例で語る「いま、教師の置かれている立場」
提案1…大野睦仁(札幌市立厚別通小学校)/10分
子どもの変容~モンスターチルドレンに対応する
提案2…南山潤司(札幌市立南小学校)/10分
保護者の変容~モンスターペアレンツに対応する
提案3…森寛(札幌市立向陵中学校)/10分
世論の変容~教師をとりまく今日的課題に対応する
検討会/20分 司会…堀裕嗣(札幌市立上篠路中学校)

10:30~12:20
事例で考える「学級経営・授業運営3つのポイント」1
【分科会1】学級経営・生徒指導/3つのポイント
提案1…小学校~山口淳一(札幌市立藻岩北小学校)
提案2…中学校~對馬義幸(札幌市立西岡北中学校)
提案3…特別支援~桑原賢(美瑛町立美瑛中学校)
協議/司会…山本和彦(石狩市立生振小学校)
指定討論者…南山潤司/石川晋(広尾町立広尾中学校)
【分科会2】国語科・授業運営/3つのポイント
模擬授業1…小学校/斎藤佳太(登別市立青葉小学校)
模擬授業2…中学校/友利真一(砂川市立砂川中学校)
模擬授業3…特別支援/梶倫之(幌延町立幌延小学校)
協議/司会…調整中
指定討論者…高橋正一(枝幸町立岡島小学校)/森寛
【分科会3】道徳・授業運営/3つのポイント
模擬授業1…小学校/小泉幸男(旭川市立東町小学校)
模擬授業2…中学校/山下幸(札幌市立上篠路中学校)
模擬授業3…特別支援/大野睦仁
協議/司会…藤原友和(函館市立戸井西小学校)
指定討論者…高橋裕章(札幌市立真駒内緑小学校)/堀裕嗣

13:15~15:30
事例で語る「学級経営・授業運営3つのポイント」2
【分科会1】モンスター・チルドレン/ペアレンツに対応する3つのポイント
提案1…南山潤司
いま、モンスター・チルドレン/ペアレンツはここまできている
提案2…森寛/山下幸
ロールプレイ・中学校型生徒指導AtoZ
【分科会2】学校行事を楽しく華やかにする3つのポイント
提案1…高橋正一「学習発表会指導ワークショップ
提案2…堀裕嗣「学校祭ステージ指導/演劇指導ワークショップ
司会…對馬義幸
【分科会3】基礎的な授業技術を身につける3つのポイント
介入型模擬授業1…兒玉重嘉(札幌市立藻岩北小学校)
介入型模擬授業2…佐藤美貴(旭川市立陵雲小学校)
講師:藤原友和/山本和彦/大野睦仁/石川晋

15:45~16:45
シンポジウム「いま、教師の置かれている立場
司会…堀裕嗣
シンポジスト…大野睦仁/南山潤司/梶倫之/森寛/石川晋

16:45 閉会セレモニー

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2008年10月17日 (金)

教師力ピラミッド

学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。

2000年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経った現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。

2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。

こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。

Image354_4 「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。

第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。

第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。

また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。  更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。

以上が、「教師力ピラミッド」に関する大まかな説明であるが、これには既に二つの大きな誤解が生じている。最後にそれを記して、本稿の任を果たしたい。

第一に、私自身がこれらの能力のすべてを身に付けていると、私が主張しているのだとする誤解である。しかし、私の意図はそうではない。本稿の冒頭にも書いたことだが、「教師力ピラミッド」は学校バッシング、教師バッシングに対する反発が私につくらせたものである。私は「なぜ、こんなにも自分たちは責められねばならないのか」「世論は我々にどういう教師であることを求めているのか」と、悩ましさを抱いていた。そこである日、「讀賣教育メール」の五年分をフォルダから引っ張り出し、教師の不祥事として報道されている記事を一件一件読んでいった。すると、教師には「これも求められていればあれも求められている」「わかるはずのないこんなことさえ事前にわかれといわれている」といった実態が理解されてきたのである。教師がこうした事態に陥るのは、間違いなく、世論が架空の「理想の教師」像を抽象的なイメージとして設定し、それを基準にして教師の具体的な行いを断罪するからである。しかも、そこで基準とされている「理想の教師」像は完璧な教師であり、完璧な人間であった。そこで、私は「みなさんの求めている教師像はこんなにもすごいスーパー教師なのですよ。こんな教師がいるわけないじゃないですか。」という意味で、「教師力ピラミッド」をつくったのである。「教師力ピラミッド」はむしろ、私の反骨精神のあらわれなのである。

第二に、「教師力ピラミッド」に示されているすべての能力を身に付けることが、教師の理想像であり、教師修業の目標であると、私が主張しているのだとする誤解である。これも私の意図に反している。私が主張しているのは、こんなにも多彩な諸能力をすべて一個人でもつことは不可能なのだから、これらを組織として機能させようということである。例えば、一つの学校(大規模な中学校ならば学年団でもいい)に、先見性・創造性をもつ人が一人もいないとか、教務力・研究力に長けた人が一人もいないとか、怖い先生を演じられる父性型教師が一人もいないとか、そういう状態にならないように、人事も学校運営も配慮すべきではないか、ということである。

ところが実際の学校には、父性型教師が生徒指導を牛耳って母性型・友人型教師を軽視したり、研究型・教務型教師が父性型教師を「時代遅れだ」と揶揄したりといった実態がある。それが学校や学年の「チーム力」に計り知れない悪影響を与えているケースが多々見られる。そのことをすべての教師が意識すべきではないか、という提案なのである。

私のメッセージはたったひとつだ。「一人で抱えるな、みんなでやろう」である。

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2008年10月15日 (水)

活きている時間

〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと、多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛まれている人もいる。この違いはいったい何なのだろうか。

例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。

例えば、二○○二年の教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。生徒達とのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来している、というわけだ。確かに六時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。

しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、生徒達のステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、生徒達が自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りにいるこんな教師達も、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日生徒達に指導を重ね、生徒達が少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのである。

ここまでを読んだあなたは、私が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そう主張しているように思われるかもしれない。しかし、私の意図はそうではない。私がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、私達教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。

それは結論から言えば、〈徒労感〉に他ならない。

考えてみて欲しい。私達は本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、生徒のためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は生徒達に何をやらせてみようか、こんなことをしたら生徒達が一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずである。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。

そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、生徒の目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。生徒にとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は生徒達とつながっている、同僚達とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。

なのにいま、私達には生徒とつながっているという実感がない。自分なりに頑張っても、生徒はこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。生徒のためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが来る。次第に生徒指導における優先順位が、「生徒達の成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、生徒に伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。

生徒だけではない。いま、私達には同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。

いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、生徒の目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が生徒に力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が、生徒達にとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師達の時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。

死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組む必要がある。

一つは、あなたが自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉となっていく。そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなっていくはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていることを意味するのである。

いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、生徒のためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。しかし、同僚に対して、「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。管理職や先輩から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。

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2008年10月14日 (火)

うーん…

うーん…。
今日はやっぱりこれですよねえ。
札幌の中学校長懲戒処分 忘れ物のカード無断使用で」。

うーん……。

でも、ちょっと感想の書きようがない。
分析にも値しない。
辞職したのは正しい判断です。それしか言えません。
魔が差したんでしょうね。きっと。

うーん……。

頑張ってください……。

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学年経営案・2008

「また性懲りもなく、『生徒の学校生活を最も理解しているのは学級担任である』と、学級担任としての自覚と自信を促す記事が紹介されている(TBをいただいた)教育ブログ」と書かれてしまいました(笑)。

「性懲りもなく」と書かれては心外なので(笑)、私が今年度、学年主任として4月1日に提示した学年経営案を掲載します。なお、同僚の名前は芸能人の名前に変えてあります。キャラクター的になんとなく近いかなと、私が勝手に感じている芸能人を選びました。

kurazohさんは「学校経営では教務主任生活指導主任などをつとめる『主幹』が大切ですが、中学校では学年経営が冴えていることが『よい学校』となる条件と言えるかもしれません。」と述べておられますが、私はそれ以上に、各学年間の連携、各学年と生徒指導部との連携が機能していることのほうが絶対条件だろうと思います。学校をあげての「悪しきヒドゥン・カリキュラム」の形成は避けなければなりません。

では、学年経営案です。保護者にも公開しているものなので、学年団のみの秘密といつた内容は書かれていません。

進化する学年運営
単なる前年度踏襲は「恥」である!提案には「+α」を!
失敗を怖れるな!骨は堀と大竹が拾う!

1.第1学年団運営の基本方針
1) 我々は税金で食っている人間であると心得るべし。
~生徒・保護者の願いはそれが学年・学校全体の不利益にならない限りは叶えてやるのが筋である。
2) 学校教育は半分のサービス業的特質(顧客満足を求める)と,半分の全体主義的特質(社会に有益な人材を育成する)とをもつことを自覚すべし
~教師はサービス業的特質と全体主義的特質との調整をはかる仕事である。
3) 自分の判断だけで動けるのは最後まで自分で責任のとれることのみであると心得るべし
~俗に言う「報・連・相」「根回し」は決して否定されるものではない。特に「報告」(学年主任・生徒指導部・管理職)を怠ると、失敗したときに誰にも助けてもらえない。
4) 教科指導・行事指導・生徒指導には「結果」を求めるべし
~教科指導は得点力のアップを、行事指導は誰が見ても感心するものを、生徒指導は解決し尽くすことを念頭に置かなければならない。
5) 「若いから」「期限付き採用だから」「転勤したてだから」といった甘えはもつべからず
~若かろうと臨採であろうと新任者であろうと、生徒や保護者からみれば関係ない。職員室の論理・感性を生徒・保護者に押しつけてはいけない。

2.第1学年団運営の重点
1) 「生徒の理想像」を高くもつべし~「これでいいか」という妥協は生徒にも伝わる。
2) 仕事は「日程」と「時間」ですべし~会議開始時間を守り,できるだけ短い会議を心がけ、生徒を動かす提案に関しては遅くとも一週間前の提案を厳守する。
3) 自分に分担された仕事は責任をもって行うべし~安易な助け合いはなれ合いを産む。
4) 学年会未検討の文書を外に出すべからず~すべての外向け文書は堀・教頭・校長のチェックを受ける。
5) 計画の段階で必ずセーフティネットを敷くべし~肉体的・精神的安全を保障することは責務である。

3.第1学年団の学年分掌
1) 総   務 ~ 堀・浜口・豊川
2) 学  習 ~ 佐野・エド・堀
※道徳・学活は堀が担当
※総合は野外学習を浜口・豊川が,拡大チャレを豊川・岡村が,ポスコンをエドが担当
3) 生  活 ~ 豊川・大竹・堀
4) 特別活動 ~ ①学年協・岡村・浜口・堀/②文化・エド/③生活・豊川・大竹/④保健・体育・美保・佐野
※ただし,野外学習関係は学習係会を豊川が、生活係会を大竹が、環境係会を佐野が担当
※生徒会との連絡調整は岡村が担当
※学校祭は①ステージ発表・エド・岡村・豊川/②装飾・佐野・浜口/展示・大竹・堀
5) 広報記録 ~ エド・大竹・美保
※学年会記録は美保が、学年便りはエドが,ビデオ・写真等の記録はエド・大竹が担当
6) 会  計 ~ 浜口・エド
7) 親 睦 会 ~ 岡村・美保

4.学級経営上の確認事項
~学級経営とは学級担任が絶対的なルールを敷き,そのルールの中で工夫する力を培うことである

1)1年間の見通しを立てて学級運営・学年運営を行う。

①年度当初を大切にする。目処として,最初の3日間で生徒との心理的距離を縮め,1週間で学級のルールを確立し,1ヶ月で学級システムを定着させる。

【3・7・30の原則】
・最初の3日間 … 安全を脅かす事例でない限り,或いは集団の規律を著しく逸脱した事例(超ミニスカ・髪染め)でない限り,厳しい指導はしない。楽しく学級開きを行うことを原則とする。
・最初の1週間 … 日直・給食当番・清掃当番・席替えの仕方について,教師主導でルールを決定する。この4点については学級担任の専権事項と心得るべし。生徒の意見など聞いてはいけない。しかもここで決めたルールは1年間,絶対に変更してはいけない。悪しき「ヒドゥン・カリキュラム」(後に詳述)となる。日直には黒板の消し方や朝学活・帰り学活の仕方(声の大きさといった基礎的な事柄から),当番活動ではほうきのかけ方,配膳の仕方に至るまで逐一細かく指導すること。その際,「やって見せて」「やらせて」「ほめる」を心がけること。この間は,見本を見せることを旨として,教師がいっしょに給食当番や清掃当番をやることも良い。
・最初の1ヶ月  … 日直・給食当番・清掃当番等について,毎日,徹底的にチェックして定着させる時期である。この時期からは担任教師は決していっしょに配膳や清掃をしてはいけない。生徒達がルールどおりに動いているかをチェックすることに専念すべきである。班ポスター・係ポスター等の掲示物は手抜きをさせず,質の高いものをつくらせる。

②行事は学級運営・学年運営の核であり,それぞれ担わせるべき役割がある。
・野外学習 … 学級・学年への所属意識をもたせ,時間意識を植え付ける行事であるとともに,学年リーダーを育てる行事。
・体育大会 … 学級への所属意識をもたせ,教師と生徒が一体化する行事。何よりも全員で一生懸命に取り組みことの楽しさを体験させることが大切である。
・合唱コン … 学級への所属意識を高めるとともに,学級リーダーを育てる行事。合唱コンの揉め事はチャンスと心得るべし。「話し合い」等をもって学級集団として高めることが大切。ただし、1年生では指揮者・伴奏者・パートリーダーが学級をまとめきれず、不登校に陥るケースが多発する行事である面ももっている。細心の注意が必要である。結果よりも過程を大切にする行事であり、生徒は他学級との相対評価を気にするが、担任までそれに完全に乗ってしまってはいけない。
・学校祭 …… 学年集団の力を他学年に見せる(見せつける)とともに,質の高い活動をつくる行事。誰が見ても感心するという「結果」を出すことが大切である。
・大縄跳び … 教師と生徒とが一体化するための行事。結果よりも過程を大切にする行事であり,練習への参加態度等を逐一チェックすべきである。大縄の練習への参加意欲によって,一年間の学級経営の評価が下されると心得るべし。

2)「勉強は大切である」という雰囲気を醸成する。

①勉強を教えるのではなく,勉強の仕方を教えるという姿勢をもつこと。

②テスト終了(得点通知表を渡すとき)時には,成績の下がった生徒に必ず声をかけて,何故下がったのかを考えさせること。

③テスト計画を立てる段階で,前回のテストで上がった生徒に対して,必ず戒めの言葉をかけること。

④1学期の成績と3学期の成績を比べて,学級全体の成績が下がっている場合には,学級担任の責任と心得るべし。学級運営と成績との間には相関関係がある。

⑤学級担任に限らず,学習関係の提出物は必ず集めきること。未提出という者を一人も出さないこと。

3)4学級が規準を揃えて学級運営を行う。

①席替えの仕方は自由だが,座席は生活班で座ること。生活班と奉仕班(総務・生活・文化・学習・環境)とのクロス方式は,少なくとも1年間絶対にくずさないこと。従って,くじで席を決めるということはあり得ない。「偶然性排除の原則」を全うすべし。

②日直は一日2名とし,座席順とする。一つでも落ち度があった場合には,次の日にやり直させること。必ず完璧にやり遂げさせてから次にまわすこと。

③提出物は必ず集めきること。締切から2日待っても持ってこない場合は,再登校させて持ってこさせることを原則とする。

④学校に存在するすべての規定には,必ず理由があり思想がある。生徒に聞かれたときに,裏側にある「理由」「思想」を自分の言葉で語れるようにしておくことが大切である。少なくとも聞かれれば答えようとするという姿勢を教師がもっていることを,生徒に認識させること。

4)一日の動き方についての確認事項

①朝巡視は以下の通り。大竹・佐野を朝巡視からはずす。
月~エド 火~堀 水~岡村 木~豊川 金~浜口
※担任が朝巡視の日は朝学活に副担任が入ること。
※美保は朝打ちの記録(連絡+連絡者名)を巡視者に朝学活中に見せること。

②朝学活は全学級共通の構成,朝打ち確認がない限り必ず5分で終わらせる。

③朝打ちで確認された日以外,朝チャレはあくまでも読書をさせること。

④1~4時間目が始まる前の巡視は次の時間が空き時間の者とする。
※授業開始チャイムの2分前に教室に入れ、1分前から各学級をまわり、授業の準備をするよう声かけをすること。

⑤給食前の巡視は副担任を原則とする。4学級が教室に入り,席に着いたのを見届けてから職員室に戻る。
※職員室の配膳を手伝うことは公務ではない。巡視を終えてから隙間時間で行うべし。

⑥給食は班にして食べさせる。
・その際,机を離して食べることを絶対に許さないこと。潜在的ないじめに発展すると心得るべし。
・おかわりは何らかの形で教師がコントロールすること。自由おかわりは弱肉強食を誘発し,潜在的ないじめに発展すると心得るべし。
・給食時,教室前後の扉はできる限り閉め,机間を通りづらいからといって,廊下を通っての移動は絶対に許さないこと。

⑦昼休みの巡視は副担任を中心に,5校時が空いている教師で行う。

⑧6時間目が始まる前の巡視は,6校時が空き時間の者とする。

⑨帰り学活は全学級共通の構成,よほどのことがない限り1分たりとも延ばさないこと。
※授業も1分たりとも延ばさないことを原則としたい。休み時間は生徒の権利であると心得るべし。

5)その他

①その他の件については,自信を持って自分の考えたとおりにやってください。やるかやらないかを迷ったときには,やることを原則にしましょう。

②1学年の一年間を乗り切れば,3年間の学年経営がものすごく楽になります。頑張りましょう。

③新しい事案が出てきたときには,その都度,学習会を開きます。

※ヒドゥン・カリキュラム(=かくれたカリキュラム)
学校教育の中で,意識的,自覚的に行われる正規のカリキュラムに対し,主に教師の無意識,無自覚的な言動により,児童や生徒へ伝わっていく知識,文化,規範などのこと。
たとえば……
①出席の取り方や指名の順番で男子が女子の先に呼ばれ続けると,男子優先という規範が子供たちに植え付けられていく。
②一度決めたルールを何度も変更することは,先生のつくったルールは変更可能であると教えることになる。
③授業中,一度指名した生徒がずっと黙っていたので,笑顔で「じゃあ,○○くんは?」と次の生徒にまわすと,黙っていれば発言しなくてもよくなるということを教えることになる。

5.生徒指導上の基本方針・重点
~我々の教員免許は教科の免許であって生徒指導の免許ではない。自分が人間的に生徒や保護者より優れているなどと思うのは「思い上がり」以外の何ものでもない。

1)生徒指導の基本方針

①常に全体の規律を優先すべし
※生徒指導では全体主義的特質がサービス業的特質に優先する。
※教師はサイレント・マジョリティこそを守らねばならない。
※一度崩れた規律は二度と取り戻すことができないと心得る。

②子供なのだから,問題行動は「起こるのが当たり前」であり,指導したことは「できなくて当たり前」という心構えをもつべし

③「心でっかち」になるべからず~「心主義」は人格否定につながりやすい。

④生徒指導は組織的に行うべし~生徒指導は学担が一人で行うものではない。

⑤教師や学校の問題点が発覚した場合にはルールの変更を全体に伝えるべし。

2)生徒指導の重点

①「理想」を高くもち「結果」を求めるべし~指導の結果が出ないのは教師の責任と心得る

②「罪を憎んで人を憎まず」の精神をもつべし~「心の在り方」ではなく「行為」を叱れ

③チームであることを意識すべし~いかなる小さなことでも学年全員に報告するべきである

④いじめ事件においては,加害生徒への指導とともに,被害生徒を強くする指導を同時並行で行うべし

⑤学級運営や学年運営において,教師やTPOによってルールを違えるなかれ

6.生徒指導上の確認事項

1)生徒指導上の確認事項

①次の場合には,朝巡視や朝学活で発見した時点で教室に入れずに相談室へ。学習権を剥奪してでも指導すべき事項とする。
a.超ミニスカ(膝上10センチ以上)
b.髪染め
c.ピアス等の肉体改造を伴う装飾品
d.制服改造(ボンタン等/おそらく流行らないので出ない)

②次の場合は,発見した時点で授業から抜く
a.著しい暴力行為(対生徒)
b.対教師暴力
c.触法行為(喫煙・飲酒等)

③興奮状態にある暴力行為に関しては,その場を動かず大声で,或いは近くの生徒を伝令にして応援を呼ぶ。決して一人で対応しないこと。対教師暴力を誘発する可能性が高い。
※暴力行為に関しては,教師が3人以上集まらないと指導を始められないと心得るべし。

④その他の事例については,発見時点ですみやかに豊川・堀に報告し指示を仰ぐ。

2)対象生徒が複数の場合の対応
例 佐藤・鈴木・高橋のうち,佐藤・鈴木が喫煙。高橋は知らない場合
①事情聴取分担・場所を決める。
例えば,佐藤を堀が相談室で,鈴木を浜口が心の教室で,高橋を大竹が理科準備室で,というように。
②生徒の言い分や感情を聞くのではなく,起こった事実を確認する。事情聴取が終わっても絶対に生徒を帰してはいけない。
※大切なのは「時間」「場所」「人物」「台詞」「行動」の5点である。

【事情聴取メモ例】

佐藤 大(1-1) 4/3(月)15:30 於・相談室

3/31

13:30頃 佐藤 煙草購入(学校近くのローソン)
13:45頃 鈴木(1-2)合流 たんぽぽ公園へ
14:00頃 たんぽぽ公園トイレ内で喫煙  佐藤2本 鈴木3本
15:00頃 高橋(1-3)合流 キャッチボール始まる
15:30頃 佐藤休憩 トイレ内喫煙
15:45頃 鈴木休憩 トイレ内喫煙
※佐藤・鈴木の喫煙を高橋は知らず
16:30頃 高橋帰路へ
16:45頃  佐藤・鈴木打ち合わせ
佐藤「持って帰ったらやばくない?親に見つかるかも」
鈴木「俺の親なら大丈夫だけど」
佐藤「じゃあ,お前もってく?」
鈴木「いや,俺別に吸いたいわけじゃないから」
17:00頃 二人別れる
17:10頃 佐藤 煙草をセブンイレブンのゴミ箱に捨てる 帰宅

③各生徒から事情聴取によって得られた情報を突き合わせる。
※メモを持ち寄って確認する
※矛盾があればそれぞれに確認する→嘘をついている生徒が発覚した場合には威圧する
※一切の矛盾がなくなるまでこれを続ける
④事実の全貌が明らかになった時点で全生徒を一箇所に集めて事実を確認する。
※事情聴取を担当した教師は全員指導にはいる
※豊川か堀が事件の全貌を読み上げて確認し,事実と違うところがないか生徒に確認する
※ないとわかった時点で初めて「指導」が始まる
⑤生徒に対してその行為がどのように悪いかを諭して聞かせる。
⑥反省の色が見えれば,ここで初めて「心の在り方」に踏み込んでもよい。
⑦教師による打ち合わせを行い,方向性を決める。
※保護者への連絡は必要か,保護者による謝罪は必要か,弁償は必要か,など。
⑧事件の質によって,打ち合わせ通りに対応する。
⑨事件の質によっては,後日,本人に教頭や学校長に報告させ,謝罪と決意を述べさせる。

7.年度当初(5月いっぱいまで)の動き

①体育館入場時の整列隊形を以下のようにする。(図略)

②体育館での配置(図略)

③休み時間ごとに巡視体制として次の体制を組む。(図略)

※豊川以外の教師は基本的に生徒達と遊ぶこと。巡視体制の見回り(監視)という雰囲気を出さないこと。
※基本的に生徒を怒鳴らないこと。生徒を1年生時点で怒鳴ると、生徒が怒鳴られることになれてしまい、2・3年時に乗り越えられていくことになる。ただし、2・3年生が1年生を見に来たときには毅然としている姿を見せること。先生方は1年生を守る存在であることを意識づけする。
※服装・言葉遣い等を注意するときには、目の前でなおさせ、謝罪させること。言いっぱなしの指導は指導ではないと心得ること。
※1学期の間、すべての生徒指導には担任・豊川・堀であたる。
※1年間、学年を超えての生徒指導でない限り、基本的に生徒指導部をあてにしない。
※豊川はキャラクター的にはこわい先生の役回り。学級では地を出していいが、1・2・4組の生徒たちとは適度な距離感を保つこと。
※浜口・佐野・美保はキャラクター的に優しい先生の役回り。学年全生徒を包み込むこと。
※岡村はキャラクター的に友人先生の役回り。休み時間ごとに男子生徒を中心に遊び型コミュニケーションをはかること。
※エドはキャラクター的に友人先生の役回り。休み時間ごとに女子生徒を中心に遊び型コミュニケーションをはかること。ただし、特に女子生徒の言葉遣いのきたなさ等に対しては逐一チェックを入れ、謝罪させて改めさせること。遊びながらも「凛」としたイメージをつくること。
※堀・大竹は当初、威厳のある好々爺的役回りを演じて、生徒指導では後ろに控える。

④生徒の学力を的確に把握する。
※4月第二週までに、国語・数学に関しては学力テスト以外に基礎学力の定着度(漢字・仮名や九九や通分など)をはかる小テストを行い、レディネスの実態把握を行うこと。
※上記の結果を見て、今後の方針を固めていく。

8.年度当初(入学式まで)の動き

①入学式関係・学級日誌・当番表・座席表 … 浜口
②生徒指導研修会関係・年度当初の学活計画 … 豊川 
③学級編制発表・入学式配布物関係 … 岡村
④入学式配布の学年便り・名箋チェック・名札チェック・4学級出席簿作成 … エド
⑤入学式机上に置く名札 … エド・美保
※わからないことがあったら、浜口に尋くこと
※堀は時間割に、大竹は教務・入学式に、佐野は学習係に専念する。
⑥4月4日(金)に学年結成の第1回親睦会を開く。

9.学年編制等

①学級担任・副担任

1組 担任 堀裕嗣/副担任 エド・はるみ

2組 担任 岡村隆史/副担任 大竹まこと

3組 担任 豊川悦司/副担任 エド・はるみ

4組 担任 浜口京子/副担任 佐野史郎

学年所属 養護教諭 美保純

②職員室座席配置(図略)

最後に!

いわゆる「馬鹿話」をたくさんすること。
教師は4月末、生徒は5月末、保護者は10月末を目処に
「1学年共同体」をつくらねばならない!

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2008年10月13日 (月)

期末懇談十箇条

先日の「中学校・学級経営セミナー」で話した期末懇談に関する資料を再掲する。何かの参考にしていただければ幸いである。

(1) 学級担任はもっと自信をもつべきだ

お母さん、あなたは○○君の保護者です。○○君のことを一番よく知っているのはお母さんです。でもね、お母さん、少なくとも学校での○○君について、つまり、○○君の学校生活について、一番よく理解しているのはお母さんではありません。担任の僕なんですよ。

まずは、読者の皆さんに問いたい。あなたはこの言葉を保護者に向かって言えるだろうか。学級担任として、この自信を語れるだろうか。私はこの自信が、実はこの「当たり前の自信」が、個人面談の成否を握るキーであると考えている。もしもこれを語れないとすれば、個人面談で何を言ってもダメである。

ここまでを読んで、読者の皆さんは、私のことをひどく自信過剰で不遜な教師と思われるかもしれない。しかし、よく考えていただきたい。この言葉は、自信過剰でも何でもない、至極「当たり前のこと」なのではないだろうか。保護者は我が子の学校生活を見ていない。他の教師は、自分ほど学級の子供を理解してはいまい。唯一、その子を部活動で指導している教師がその子をよく理解している場合があるが、その理解はやはり一面的である。担任生徒の学校生活を最もよく理解しているのは、どう考えても学級担任なのである。

これは担任教師が若いとか、実力がないとか、そういったこととは無関係に言えることだ。例えば学級担任が新卒、副担任が五十代のベテラン、こういった状況であったとしても、副担任が担任以上に生徒を理解している、などということは決してない。

教科担任は主に授業場面だけを見ている。部活動指導者は主に部活動場面だけを見ている。副担任は接する場面が担任にくらべて極端に少ない。いずれも一面的にしか見ることができない。ところが学級担任は、授業、特活、道徳、給食時間や昼休み、部活動と、様々な場面で生徒を観察している。更には保護者の顔まで思い浮かべながら指導している。生徒の学校生活を総合的に理解しているのは、実は学級担任一人だけなのである。

いま一度、確認しておきたい。学級担任が生徒の学校生活を最もよく理解している。この「自信」こそが、すべての教育活動の基盤となるのである。

(2) 面談と日常実践は連動して評価される

さて、だからと言って、担任が思ったこと、考えたことをすべて面談で保護者に一方的に伝えれば良い、というものではない。問題はそういった担任教師の「自信」が、保護者にとっても正当と感じられるか否かにある。

例えば、個人面談で保護者に、生徒に対する肯定的な評価を伝えたとする。ところが、日常的に細々と注意したり説諭したりしているのでは、その「肯定的な評価」も保護者にとっては疑いの的となる。「個人面談ではずいぶんといいことを言っているのに……どうも、先生の本音は違うようだ」ということになる。 また、教師が生徒に直して欲しいところを自信をもって指摘したとしよう。「僕は注意ばかり受けている」「先生は僕ばかり注意する」「僕は先生に嫌われている」と日常的に我が子から聞いている保護者は、我が子への指摘を正当なものと受け取らない。「息子が言っていたことはホントなんだわ。やっぱり息子は先生に嫌われてるんだわ」となる。

更には、面談において、学級担任が自らの学級経営への情熱を語ったとしよう。これも日常的な学級運営がうまく行っていないと、「ずいぶんカッコいいこと言ってたけど、実態が伴っていないものねえ。結局、口だけの先生なのよねえ」と揶揄されることにもなる。つまり、日常実践が伴っていないと、個人面談における担任教師の言葉は、かえってマイナスにさえ機能するわけである。

私は前節において、生徒の学校生活を最も理解しているのは学級担任である、と述べた。そして読者の皆さんに、その自信を語れるかと問うた。しかし、この「学級担任としての自信」を語るには、やはり日常の学級運営がうまく行っている、それが保護者にも伝わっている、という前提が必要なのである。つまり、私の言いたいことは、次の三段階で考えるべきだ、ということである。

① 事実として、生徒の学校生活を最もよく理解しているのは学級担任である。これには誰もが自信をもつべきだ。
② しかし、それが保護者に伝わっていない場合には、学級担任はこの自信を語るべきではない。こんなことを言う前に、学級運営の在り方を修正し、保護者に納得してもらう方が先だ。
③ 学級運営がうまく行っているときには、学級担任はこの自信を堂々と語り、個人面談をよりよく機能させるべきだ。

学級担任は、こういったシンプルな捉え方をすべきだと思う。よく保護者が学級担任に苦情を言ってくることがあるが、これは学級運営がうまく行っていない状態なのに、学級担任が自分の正当性ばかりを主張したときに起こるのである。学級運営がうまく行っている場合には、学級担任の指導・助言は、真綿が水を吸い込むように保護者も理解してくれる。保護者だって、自分の子育てに自信満々なわけではない。学級担任が信用できるのならば、保護者だって実は学級担任に助言してもらいたいと思っているのだ。最初から学校批判、教師批判、担任批判をしたいと考えている保護者は、ただの一人もいないのである。

昨今、教育界を取り巻く現実は厳しいと言われる。しかし、この国の学校教育の基盤はまだまだ捨てたものではない。マスコミの論調に乗っかって、学校の現状を否定的に見たり、必要以上に保護者に対して警戒したりすることの方が、実はずっと問題なのである。

(3) この十箇条で個人面談の失敗は避けられる

最後に個人面談を成功させる最低限の条件として、次の十箇条を挙げておきたい。

①事前に内容の希望を取るべし
週五日となり、授業時数の確保が難しくなった。個人面談の日程も三日程度になってきている。面談にかけられる 時間は、一人あたり一五分程度ではないだろうか。この一五分の面談時間を濃密な一五分間にするために、個人に対 してしか語れない内容だけで個人面談を構成すべきである。そこで、学級全体に対して言うべきことは学級通信その 他で伝えることとし、個人面談ではその子特有の内容のみに話題を絞るべきである。そのために、面談の希望時間だ けでなく、何について相談したいのかという保護者の面談内容の希望についても、事前に書いてもらうべきである。

②明確な目的をもって面談すべし
個人面談の目的が、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、問題行動への 対応の話し合いにあるのか、学習に関する取り組み方にあるのか、最低でもこのくらいは明確に意識すべきである。

③細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、絶対評価の規基準、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにす ぐに答えられなくてはならない。わからないことを尋ねられた場合には即答を避け、「明日調べてお電話いたします」 或いは「資料を明日お子さんを通してお渡しします」と答える。

④時間通りに面談すべし
個人面談は保護者がわざわざ時間を割いて来てくれている。中には仕事を休んで来てくれている場合もある。例え ば、四時半の予定が五時半になったしよう。五時半なら、保護者は仕事を途中で切り上げる必要がなかったかもしれ ないのだ。私たちはこの一時間で、保護者のパート収入八○○円を奪っているかもしれないのである。面談日程は、 絶対に時間通りに進めるべきである。

⑤できるだけ本人を交えて話すべし
これは面談の目的によって変わることなので、一概に三者面談がいいとも言えない。しかし、三者面談なら、親子 の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒の接し方を保護者に見せることもできる。一般的 には二者よりは三者がいい、と言える。

⑥できるだけ褒めるべし
注意や説諭ばかりでは保護者も警戒してしまう。問題行動への対応が話題の中心だとしても、できるだけ子どもの 良いところを見つけ、それをしっかりと伝えたい。

⑦できるだけ具体的な話をすべし
子どもを抽象的に褒めるだけではいけない。こんなことがありましたよ、あんなことがありましたよ、と具体的な エピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語るべきである。しかも、保護者の目の前で子どもと 対話する場面を見せたい。できればユーモアを交えて、教師、保護者、生徒の三者で、一緒に笑う場面をつくりたい。

⑧メモは終了直後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまりいい気がしない。聞いた話をメモするというスタン スではなく、あくまでも「対話」を成立させるという姿勢で臨むべきだ。その場でのメモは大切な数字やデータ、健 康に関わることのみとし、必要なメモは終了直後に取るのが礼儀に適う。

⑨プライバシーを口外するべからず
個人面談は一日に十件以上行う。先ほど行った面談で出た話題と同じ話題が出る、などということも多い。つい気 がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちである。厳禁である。

⑩他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達を中傷したり、ある教師を批判したりする場合がある。いっしょになって非難するのは厳禁 である。保護者の立場になって聞くだけに止める。ただし、それを聞いて、放って置いてはいけない。できればその 日のうちに事実関係を確認し、できるだけ早く対応する。特に教師批判は学級や学年を揺るがす大問題に発展するこ ともあるので、慎重な対応が必要である。また、部活動のスポンサーに対する批判を耳に入れたときは、よくわかり もしないのに、学級担任が自分の考えを述べるということは避けた方がよい。即座に批判内容をスポンサーの耳に入 れ、あくまでスポンサーに対応してもらうことだ。部活動には、その競技特有の流儀がある場合も多いからである。

以上、個人面談は、学級担任としての「自信」を基盤に、生徒・保護者を肯定的に見て語る。これを基本スタンスとすべきである。

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2008年10月12日 (日)

実学志向は自殺行為である

横浜の野中先生が「時代に合わなくなっている教員養成のシステム」と題して、教員養成課程の大学教育を批判している。教員養成大学がいまだに昔ながらの教養主義的なカリキュラムを組んでいて、担任学・教師学・実践学など、総じて現場に直接役立つような教育を施していない。だから、新卒教員はクラスにいる2,3人のやんちゃ坊主たちにいいようにクラスをかき回され、学級崩壊か崩壊寸前まで行くなんてことになってしまう。もっと初任者にきちんとした問題意識を持たせ、現状を知らせ、それに対する対処法を持たせなくてはならない。こういう論理である。

その例として、私も親交のある池田修(京都橘大学)や赤坂真二(上越教育大学)が開講しているような「学級担任学」「勇気づけ学級経営論」を挙げ、こういった実学的な講座こそ大切である、という。こういう現場の現実に立脚した講座が多くなれば、新卒教員に少なくとも「甘っちょろい思い」だけは払拭されていく。こう結論づける。

私はこれを読んで、野中先生ともあろうお人がなんという短絡的な発想に埋没しているのかといぶかしく思う。私も別に「学級担任論」や「勇気づけ学級経営論」の開講に反対しないが、こうした実学的講座を教員養成系大学のカリキュラムの〈主流〉にしていくことには断固反対である。

新卒教員がいまひとつ現場で働ききれないのは、私も確かだろうとは思う。しかし、それを大学教育を実学化すればよいと考えるのは短絡である。現在の教養主義的大学教育にしっかりと向き合えない学生にとっては、実学的な大学教育にはもっと正対できないものになるだろうと予想するからである。

確かに大学教育が実学的な講座を開設すれば学生たちは喜ぶに違いない。しかし、なぜ喜ぶかが問題である。それは現場に出てからこの素養があれば〈楽になるだろう〉と学生たちには想像されるからである。だが、頭で実学を学ぶことと、現場で、その渦中にいる者として現状に対して行くこととの間には、天と地ほどの違いがある。実学だけを学んだ学生が現場に出て、その教養の欠片もない実学頭で、習ったこと以上の事態に遭遇したとき、その学生はいったいどうなるのか。結局はこれまでの教養主義的大学教育と現場的現実との間のギャップと同じことが起こるのではないか。いや、基礎教養が現在よりも少なくなるので、現在以上に打開策を講じる基礎教養が少なくなってしまっているのではないか。

実学を悪いとは言わない。

しかし、実学はあくまで、学問の中では〈恥ずかしいこと〉〈隅っこ〉〈二流〉〈亜流〉という位置づけを施しておくべきものであって、それを〈主流〉にするのは間違いである。実学的なことを講義で学んでも頭で理解するだけ、エピソード的に学んでも感動するだけ、体験実習的に学んでも結局は他人のふんどしで相撲をとる中途半端なものになるだけ、どれもこれも学生たちを〈勘違い〉に陥れるだけである。

私は最近の教員養成系大学から現場に対応できない教員が輩出されるようになったのは、大学教育が「時代」に迎合し、怯え、実学的志向を高めすぎたためだと考えている。大学は「卒論」の他に「教養論」として2年の終わりにも200枚程度の論文を課すとか、ダンスでも歌でもスポーツでも文学でもなんでもいいから、つまりはその学生自身のに生の日常生活に直結した課題について、1年間でみっちりと体験し分析する、というような体験学習を取り入れればいいと思う。

例えば、1月のダンスイベントに向けて基礎体力づくり、練習の積み重ね、ダンスイベントの企画・運営、チケットの売買、ちらしの配布、イベント当日の運営、打ち上げの飲み会、反省会、分析、反省レポート執筆というような流れで、半年から1年間、自分の生活の中心をそれにしてしまうような生活を送らせるのである。それを2年次に設定する。これが無理なら、教養課程修了のために「教養論文」を必須とするでもいい。

かつて、卒業論文というものはそういうものだった。現在、卒論は日常生活を変えることなく書ける程度のものになっている。それがいけない。大学はいい年をした若者が4年もの長きにわたって過ごす場所である。4年間で2度、自分の生活のほとんどをかけなければ成り立たないようなものに取り組むくらいの心意気が欲しい。

実は、学校現場に限らず、「現場」とは、自分の生活の中心をそれにしなければ成り立たない、そういう場所である。何かトラブルが起こったときに、全人的にそのトラブルを解決しようと取り組むからこそ、現場は混乱することなく成立するのだ。そしてその全人的な取り組みがあるからこそ、トラブル解決の道筋を定め、トラブル解決のアイディアを思い浮かべ、トラブル解決の行動を起こせるのである。こうしてトラブルの多くは解決していくのだ。最近の若者にはその姿勢が欠けているのである。

そんな若者たちに教育の〈主流〉として実学を施すことは、当の学生たちにとっても、彼らを受け入れる現場にとっても、結果的にプラスにはならない。

大学教育の実学志向は自殺行為である。

実学とはあくまでも〈当事者性〉によって支えられている。既に教員となっている〈当事者〉が日常の研修カリキュラムに位置づけるとか、学級崩壊を起こしてしまった現場の〈当事者〉が再教育の過程で受けるカリキュラムとして位置づけるとか、そうした〈当事者〉の研修方法として位置づけられるべきものだろう。

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2008年10月 7日 (火)

「ほどほど」の効用

つい先ほど、ある塾(予備校かもしれないし、教員採用試験用の予備校かもしれない)が「教師力養成」と銘打って現場教師を鍛えようとしているプロモーションビデオを見た。これがすごい。「学ぶ空間づくり」と言って、ものすごい元気な声で「みなさんおはようございま~す!」と教室に入ってくる。教師が元気いっぱいにやる気を見せ、本気度を示す、そういう意図らしい。授業における説明も指示も、鬱陶しいくらいに一生懸命語り口調。これを毎時間やられたらうざったくてしようがない。しかし、当の塾の方は、どうもそういう感覚はお持ちじゃないらしい。プロモがそうなのだから、まず間違いない。これが良いと思いこんでいるのだ。

ぼくは、教師というものは、そんなに一生懸命にやる気をもってやっている姿を見せるよりも、仕事を楽しんでいる姿を見せる方がずーっと子どもたちに良い影響を与える、そういう職業だと思う。この塾がやっていることもぼくが主張していることもいわば「感化主義」には違いないが、この塾のやる気満々を見せようという方針は、子どもの心、人間の心を方程式で解くような、あくまで頭で考えた「感化主義」だ。

例えば、合唱コンクールの練習に取り組もうとか、学校祭でよりよい企画を立てようとか、体育大会頑張ろうとかいった、行事への取り組みなら鬱陶しいほどのやる気を教師が見せることにも効果はある。その機会主義的な発想が功を奏すからである。しかし、日常的に教師がやる気オーラを発散しているのでは、それに付き合わされる方がつらい。その空気に付き合わされるだけで疲れてしまう。どうせ「学ぶ空間づくり」として教師のつくる雰囲気が大切だと主張するならば、もっと静かな、威厳のある雰囲気づくりにでも取り組んだ方がいい。

この「教師力養成講座」に長期間ついて行けるのは、教員の何割くらいだろうか。きっとこの塾はついて来られない教員を「根性がない」とか「根気がない」とか「現在の教師の問題点がわかっていない」とか言って切り捨てるだろうが、そんなものではない。自分のやり方のみに固執して、それを基準にすべてを判断するほど害悪となることはない。このプロモーションビデオにはその匂いがプンプンしていた。

最近、この年になってやっとわかってきたことがある。それは、物事は「ほどほど」がよい、ということだ。何事も「ほどほど」にしておくからこそ、八方まるくおさまる。それが世の中というものである。

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2008年10月 6日 (月)

〈データベースに働きかける〉ということ

昨年に引き続き学校祭のためにビデオをつくっている。

今年はステージ発表としてではなく、展示作品の一つとしてビデオを制作している。今日もさまざまな撮影をおこなった。いわゆる「ネタばれ」になるのでどんな撮影をしたかはここには書かない。

ただ、今回のビデオの構成は、三つに分かれている。一つは最近の映画のパクリ。これは生徒用につくっているもの。もう一つは学年協議会や一学年教師団のプロモーション・ビデオ。これは生徒が知らないような昔のドラマのパクリで、保護者世代に喜んでもらおうとつくっているもの。更にもう一つは、この半年間の生徒たちの活躍で構成されたもの。これは勤務校の生徒・保護者にしかわからないタイプのもの。行事や日常の学校生活の写真・ビデオのみで構成されているからだ。

こんな単純な仕分けを意識してつくっているわげだが、ここからある発見があった。最近の映画のパクリと昔のドラマのパクリとは、おそらく私の勤務校の生徒や教員をしらない者が見ても、何をやっているか意味がわかる。私の勤務校の生徒・保護者でなくても楽しめるだろうというものになっている。知っている映画や知っているドラマがもとになっているからだ。それはつまり、これまで生きてきて培われたデータベースが共有化されているからである。

もちろん、生徒たちが見ているような最近の映画をデータベースとして持っている者と持っていない者、昔のドラマをデータベースとして持っている者といない者という、世代的なデータベースの違いはある。しかし、それでも、データベースを共有していさえすれば、その意味がわかり、その馬鹿馬鹿しさを楽しむこともできるはずだ、ということになる。

昨年は最初から最後まで、だれでも知っているようなものばかりで構成した。「サザエさん」「ゲゲゲの鬼太郎」「ちびまる子ちゃん」といった具合である。老若男女、これらを知らないということはない。だから受けた。

しかし、今年は違う。生徒たちに話し合いをさせたところ、題材が「映画」になった。しかも、生徒たちに取り上げたい映画を訊いたところ、少なくともぼにはよくわからない映画が並んだ。取り上げることになった映画は6本程度あるのだが、ぼくは1本も見ていなかった。保護者はどうだろうかと考えたとき、中学生を子どもにもっているのだからぼくよりは見ているかもしれないし、見ていなくてもぼくよりは知っているのかもしれないが、まあ五十歩百歩だろうと思われた。そこで、保護者のデータベースに働きかけるようなものも入れようということになった。それが昔のドラマ…というわけである。

さて、昨日も書いたように、一昨日、累積国研の第21回の学習会が開かれたわけだが、ぼくはここで6本の模擬授業についてコメントする立場として参加した。このとき意識したことは、ぼくがコメントとして分析を披露する参加者が国語の授業についてどの程度のデータベースをもっているかということだった。

そこで行われた授業はぼくも参加者も同じように見ている。つまり、そこで起こった現象についてはぼくと参加者との間で共有化されているわけだ。ぼくに与えられた役割は、その共有化された現象に対して〈価値〉づけて〈意義〉づけて、できれば〈代案〉を出すということである。それを〈短い時間〉で〈わかりやすい言葉〉で伝えなければならない。とすれば、これまでの国語科授業の歴史の成果、授業を分析するための多様な観点、授業者にさえ意識していなかったその授業の意図、参加者が瞬間瞬間に感じた戸惑いや違和感の所以…といったものを、参加者のデータベースと結びつけて語らなければならないということである。これはけっこうホネが折れる。

例えば、S先生に宮澤賢治の『注文の多い料理店』の授業があったのだが、このときぼくは、二人の紳士の心情の変化を読み取る上で勘所と思われるような〈視点論〉的分析、〈語り論〉的分析を伝える必要に迫られた。しかし、ここで〈視点論〉〈語り論〉という用語を用いてしまえば、「わかる人にしかわからない」解説になりかねない。難しい用語に拒否反応を示す参加者もいるかもしれない。だからできれば使わない方がよい。しかし逆に言えば、そういう理論に飢えている人もいるかもしれない。従って上っ面の分析で事足れりとするわけにもいかない。なんせ、参加者は3000円も払って、泊や伊達や旭川から来てくれているのだ。

結局、ここでは〈視点論〉という用語を使わずに、また、〈語り論〉も理論的なことを語らずに、小学校教師でもすんなりと受け入れられるであろう「語り手は…」という語を用いて、平易に、しかし〈視点論〉的な読みの理論を解説していくことにした。この判断はまずまずだったようで、参加者の多くがぼくの言っていることを理解してくれたようで、大きくうなずいてくれていた。

さて、もう一つ。ここでぼくがこういう判断をすることができたのも、ぼくの中にある客層判断のデータベースによるのだということである。ぼくはこういう研究会で難しい話をし過ぎて引かれてしまったり、簡単にしすぎて重ね質問を受けたり不満げな顔をされたりといった経験を数多くしてきた。授業を受けている参加者の表情から、或いは授業社の発問に参加者が答える発言内容から、その日の参加者の質やレベルを判断できるようになってきている。一昨日の参加者はかなりレベルの高い参加者が多かった。

なにをするにしても、豊富なデータベースが基礎となる。そして仕事をするということは、その仕事の対象となる人たちのデータベースを的確に把握し、そのデータベースに働きかけることなのだ。

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2008年10月 5日 (日)

教材の余白

秋の累積国研が終わった。テーマは〈道内実践家 模擬授業12連発!新指導要領キーワード「PISA型読解力」「言語活動例」~「活用力」を高める国語科授業~〉である。この学習会は2002年に立ち上げられ、既に21回目を数える。「模擬授業12連発」という企画も5回目だ。今回は、続けることにも意義があるということを切に実感させてくれる会になった。若手の成長が著しい。こうした研究会を主催する者にとって、これが一番うれしいことである。

「話すこと・聞くこと」領域授業のコーナーで、O先生がプレゼンの授業をおこなった。

調理器具の絵(包丁・フライパン・食器セットなど)の絵を配付し、その絵を見ながら「これがもしも未来の調理器具だったら」ということでアイディアを出し、この絵を提示しながら未来の調理器具の目玉となる要素をプレゼンしようというもの。アイディア交流あり、プレゼン技能の解説あり、その活用法の振り返りありと、なかなかよく練られた授業である。

ただ、O先生が出したモデルが簡単すぎて、参加者から出たアイディアもそれほど画期的なものにならなかったところに少々難点があった。O先生の出したモデルは、包丁を提示して「この包丁は柄にセンサーがついていて、人間がもたないと刃が出ない、これまでの包丁よりも安全性が高まっている」というもの。モデルがこのような簡単なものだと、確かに下位の子どもたちにはアイディアを出しやすい。しかし、上位の子どもたちにはおそらく退屈なモデルとなり、「先生の求めているのはこの程度のアイディアだ」となってしまう可能性がある。それではいけない。

私は授業後のコメントで、「この包丁は人間がもつと『この包丁を危険なことに使いませんか?』と問われ、人間が『はい』と答えると柄についている嘘発見器が汗の量から測定・判断し、刃が出るかでないかが決まる。これで秋葉原のような事件もなくなっていく」という思いつきのモデルを示したが、ああの先生が出したモデルとともに、この程度のひねりのあるアイディアをも同時に提示すると、下位の子どもはO先生モデルを、上位の子どもは堀モデルを参考にしてアイディアを出すようになる。モデルを提示するときには、こうした硬軟二つのモデルを提示するのがいい。

もう一つ、これと対照的だったのが、M先生の選挙推薦スピーチの授業。のび太・ジャイアン・スネ夫の3人が児童会長に立候補した。参加者がこの3人のうち、だれか一人の選挙推薦人となって立ち会い演説会で推薦人としてのスピーチをする、という設定である。のび太・ジャイアン・スネ夫に関する資料(A4判各一枚)も配付され、参加者としてはそこから情報を取り出せば良い。

また、だれの推薦人になるかは封筒が配付されそれを開けて初めてわかるという念の入れよう。グループ分けがなされて交流してみると、そのグループのメンバーはみんな同じ人物の推薦人。交流においても同じ人物の推薦人として、自分と他人とがどういった観点で推薦文をつくったかが比較できる。更には、最後に情報の取り上げ方、発表の仕方の勘所についてシェアリングを行い、言語技術・言語技能的な振り返りで活動中の思考を整理することもできる。感心するほどによく準備された授業である。

しかし、この授業はあまりによく準備されているが故に、学習者側から見ればあまりに自由が利かない。まず、のび太・ジャイアン・スネ夫のうちだれの推薦人になるかを自分で選ぶことができない。第二に、それぞれA4判の資料が用意されているが故に、推薦文に書く内容の最大値があらかじめ決定してしまっている。第三に、グループ交流において他の人物の推薦者の原稿(情報の取り上げ方)を学ぶことができない。第四に、かなり窮屈な言語活動についてシェアリングするものだから、シェアリング自体にもダイナミックな意見が出てこない。総じて言語活動のダイナミズム、授業のダイナミズムを削り取る構成になっていた。

おそらくM先生としては、学習者がわかりやすいように、3人のキャラクターについて情報をもっていなくても困らないように、要するに下位の子どもたちにもちゃんと学習が成立するように、と考えた末の授業構成だったのだと思う。しかし、そうしたことに念を入れすぎて、学習者をがんじがらめにしてしまい、自由度のない、一分の隙も与えない授業を考案してしまったのである。

おそらくM先生はまじめな、いい先生なのである。そして、まじめでいい先生だからこそ、こういうふうに隙のない授業になる。隙のない授業が子どもの学習活動を機能させ、子どもを育てることは確かだが、隙のなさすぎる授業は子どもを縛り付け、子どものモチベーションを下げる。私はこれを「教師の一生懸命病」と呼んでいるのだが、M先生のようにここまで考えられる教師は、この「一生懸命病」に陥らないようなバランス感覚にも配慮し始めるべきだろう。授業だけでなく、学級経営でもそうなのだが、教材にも生徒指導にも〈余白〉がなければ、子どもたちが息切れしてしまう。それはそれで害になるのだ。まったく教育とは難しいものである。

その点、O先生の教材には、自分のアイディアを出して〈教材の余白〉を埋めてもよいという自由度があった。自由度があるからこそ、〈モデル〉の質が大切になったのである。M先生の授業は〈モデル〉が確立し過ぎていてかえって窮屈になってしまった例といえる。

この二つの模擬授業が連続して行われたことで、また、自分がこの二つの模擬授業のコメント者であったことで、こんな原理を考えることができた。感謝したい。

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2008年10月 3日 (金)

ある若手教師からのメール

ある若い先生からメールで問い合わせが来た。「家庭訪問」の仕方について教えてほしいというのだ。保護者の方とうまく行かずに困っているという。何かにつけてクレームをつけられてきたのだが、今日は、家庭訪問をする時間、訪問態度、生徒の部屋に入っての生徒とのやりとりについても一つ一つ文句を言われたのだと言う。そして私へのメールとなったわけだ。

おいおい。

それがダメなんだよ。家庭訪問の仕方についてクレームをつけられたから家庭訪問の仕方について学ぼう、そんな学び方をしていたのでは、この先、懇談の持ち方が悪い、発言の取り上げ方が悪い、行事への取り組みが悪い、授業への取り組みが悪い、……どんどんクレームネタが増えていくだけである。だれでもわかることだ。

この10行程度のメールをその保護者と会ったことのない私が読んでさえ、事の本質が家庭訪問の仕方にあるわけではないことがわかる。〈家庭訪問の仕方〉なんて言う些末なことについて保護者が口にするなんてのは、この教師が謝罪をしに行ったのにちゃんと謝罪しなかったということが原因に決まっているではないか。それを保護者が(おそらくは)売り言葉に買い言葉的に言った〈家庭訪問の仕方〉へのクレームだと受け取ってしまうとは……。

人間、生きていれば様々なことに遭遇する。出会いがあり別れがあり、喧嘩もすれば仲直りもし、恋愛もすれば失恋もする。仕事がうまくいくこともあれば、うまくいかずに上司にこっぴどく叱られることもある。ちょっとした発見に喜んだり、趣味として夢中になって取り組んでいたものにふとしたきっかけで急にやる気を失うなんてこともある。「あの人は仕事が出来る」といわれる人は、こんな、一つ一つにつながりのないように思えることどもが、実はつながっていることを知っている人である。例えば、趣味でやっているサッカーのフォーメーションの原理と、職場の人間関係のつくり方に共通点を見出して、チーム力を仕事の原動力に変えていくエネルギーとする。例えば、好きなミュージシャンのライヴに行った折に展開されたアドリブからヒントを得て、学級運営に息のあったアドリブ的な趣が生まれるための要素について研究・開発していく。こういった例である。

私にメールをくれた若者は、簡単に言えば、一つ一つが頭の中で独立していて、それぞれの〈回路〉がつながっていないのである。〈回路〉がつながつていないから、考えていることや言ったことと、やっていることとのつながりが保護者にも生徒にもまったく見えない。だから、厳しいクレームにつながることになる。クレームの本質に〈家庭訪問の仕方〉などということはまったくきと言ってないはすだ。その保護者にしてみれば、あまりにも教師の態度が改まらないないので、そんなことまで口にしてしまうようになってしまったのである。何ヶ月も前から、この教師にはわからない、この教師が自覚していない、細かな難点がいくつもいくつもあったはずである。そして正直に言えば、この若い教師に対してネガティヴな感情をもっているのはその保護者だけではないだろう、私にはそう思える。

一応、昔書いた「失敗しない家庭訪問」という原稿を採録する。私は現在の勤務校に着任して以来、家庭訪問週間を経験していないので、これは前任校・向陵中学校での実践をもとに書いた原稿である。

〈自己キャラクター分析〉に基づいたメリハリある家庭訪問を心がける

1 教師にもそれぞれのキャラがある
 私は現在、教職11年目である。この11年間はすべて担任だ。家庭訪問も11年間にわたって、毎年行き続けてきた。現在、私の家庭訪問の実態は、次のようなものだ。
  母 どうもいらっしゃいませ。
  堀 いやあ、どうも。堀でございます。
  母 どうぞ、お入り下さい。
  堀 失礼します。
  母 どうも息子がお世話になっております。
  堀 いえいえこちらこそ。本人は家でなんか言ってます? 新しい学級のこと。
  母 ええ、とにかく楽しい、って。なんだかわいわいと……。
  堀 おお、そりゃ良かった。なんたって楽しいのが一番だからねぇ。僕の印象は、なんか言ってますか?
  母 はあ、なんか面白いけど、変な先生だって……。
  堀 ははは……そうでしょう? みんなそういうんですよ。母さんはどうですか? 僕の印象、率直に言って……。
  母 ……。
  堀 いやあ、正直に言っていいんですよ。
   率直に言って、悪かったでしょう? ひげ面だわ、でかいやらで……
 終始、軽い調子である。こういった対話の在り方は、多くの若い教師に支持されるはずである。このように、教師と保護者とがざっくばらんに話すことができたら、教育活動もうまく行くことが多いのではないか……。若い教師はそう考えがちである。
 しかし一方で、こういった訪問の在り方を失礼だと言う先生方も多い。特に、ベテラン教師の多くはそう考えるに違いない。そしてこうした考え方は、軽い調子の家庭訪問を11年間続けてきた私でさえ、肯定するのである。もしも同僚の新卒教師が、私の真似をしようとしたならば、私はすぐに「やめた方がいい」と助言するだろう。
 教師にもそれぞれのキャラクターがある。このような家庭訪問での対話は、私という教師のキャラクター故なのである。つまり、学校でも生徒相手にこのキャラで教育活動を行っているからこそ、家庭訪問でもそれで通しているのだ。いわばこれは「演技」なのである。私は意識的に、こういうキャラを演じているのである。

2 まずは〈自己キャラ〉を分析する
 例えば、同僚の女性教師が「こら!」などと大声を張り上げて生徒指導を行っているのを見て、違和感を覚えたことはないだろうか。或いは、どこから見ても強面の男性教師が生徒と和気藹々で談笑しているのを見て違和感を感じたことはないか。優しそうでまじめそうな細面の男性教師が、非行生徒と対面でやりあい、生徒に押し切られたのを見たことはないだろうか。これらはすべて、教師の「自己キャラ」分析ができていないことから生じた違和感なのである。
 周知のように、学年の教師集団には、それぞれに役回りがある。
 ある者は生活指導教師として、生徒の服装・頭髪・挨拶の仕方などに対して、厳しくチェックすることが役回りである(父性型教師)。ある者は教育相談的な教師として、カウンセリングマインドを旨とした繊細な接し方をする役回りである(母性型教師)。ある若手の教師は生徒たちの兄貴分として友達的な接し方をし、生徒達から教師には見えづらい情報を入手する(友人型教師)。こうした役回りがきちんと意識されており、それぞれが機能的に動き、尚かつチームワークがとれているというのが、理想的な学年集団である。
 そして、それぞれの役回りは、学年に所属するそれぞれの教師のキャラクターによって設定されるのである。生徒指導においては、それぞれの教師のキャラクターを最大限に活かした役割分担がなさるべきなのである。また、この三つの役割のどれをも演じられる教師ほど、或いはそれぞれを使い分けられる教師ほど、教師としての実力が高いといえる。
 こうした役割分担を意識した上で、私は学年の男性教諭の中では最も若く、生徒達を笑わせることも得意としているので、「友人型教師」の役回りを意識的に演じている。つまり、それが家庭訪問の在り方にも、つながっているわけである。

3 家庭訪問には十箇条がある
 本稿のテーマは「失敗しない家庭訪問」である。一般的に家庭訪問が失敗しないためには、次のような十箇条が考えられるだろう。
(1)明確な目的をもって訪問すべし
家庭訪問の目的が、最低でも、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、対応の仕方の話し合いにあるのか、このくらいは明確に意識して臨むべきであろう。
(2)細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにすぐに答えられなくてはならない。わからないことを尋ねられた場合には、即答を避け、明日調べてお電話いたしますと答える。
(3)時間通りに訪問すべし
若い教師にはこれが難しいようである。家庭訪問は保護者がわざわざ時間を割いてくれている。できるだけ時間通りにまわらなくてはならない。また、時間通りにまわれる日程を立てなくてはならない。
(4)できるだけ本人を交えて話すべし
これは家庭訪問の目的によって変わることなので、必ずしも本人がいた方がいいと言えるものではない。しかし、年度初めの家庭訪問であれば、親子の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒との話し方、関わり方を保護者に見せることもできる。
(5)できるだけ褒めるべし
年度当初の家庭訪問から、注意や説諭が中心では保護者も警戒してしまう。短い期間で子どもの良いところを見つけ、それを伝えてあげることを忘れてはいけない。
(6)できるだけ具体的な話をすべし
子どもを「いい子ですね」「積極性がありますね」と抽象的に褒めるだけではいけない。具体的なエピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語るべきである。
(7)メモは訪問後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまりいい気がしない。聞いた話をメモするというスタンスではなく、あくまでも「対話」をするつもりで訪問すべきだ。その場でのメモは大切な数字やデータ、健康に関わることのみとし、必要なメモは辞してからするのが礼儀に適う。
(8)プライバシーを口外するべからず
家庭訪問で何軒もまわっていると、先ほど訪問した家で出た話題と同じ話題が出ることがある。つい気がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちである。これは厳禁である。
(9)他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達の悪口を言ったり、ある教師を中傷したりする場合がある。いっしょになって非難するのは厳禁である。そういう噂は必ず漏れると心得るべきだ。
(10)接待を受けるべからず
若く独身の男の先生には、保護者もお菓子や飲み物だけでなく、夕食やビールを振る舞おうとする場合がある。これは絶対にいけない。あの先生は○○さんの家で酒を飲んだということが、次の日の朝には学年中が知っている、ということになる。また、ある家で接待を受け、ある家では受けないという差をつけることにもなるからだ。
  以上の十箇条を守るならば、少なくとも「失敗しない家庭訪問」にはなるはずだ。

4 〈自己キャラ〉に応じたメリハリを
 しかし、「失敗しない家庭訪問」は、あくまで「失敗しない」というだけのことである。「失敗しない」ことは「成功する」ことと同義ではない。そして、この「家庭訪問十箇条」を応用し、「自己キャラ」に応じて保護者と接し、自分を印象づけるとともに有益な情報を引き出してこそ、家庭訪問は「成功した」と言えるのである。
  例えば、私は接待について、毎回生徒達に次のように言う。
「先生はコーヒーが好きです。それも濃~いコーヒーが好きです。薄いのはコーヒーだとは思っていません。家庭訪問に行くと、ケーキとか和菓子とか、いろんなものが出されますが、先生はそれらには一切手をつけません。基本的に気遣いはいらないんですが、もしも何かを出してくれるのなら、濃~いコーヒーをお願いしますと、父さん、母さんに言っといてください。お願いします。」
 ここ6年ほど、この言い方で通すことにしている。二つの利点がある。
 第一に、各家庭によって受ける接待に差が出ない、ということである。日本は贈答文化の国であるため、家庭訪問で先生が来ているのに、何も出さないというのは保護者も気が引けるようである。私はコーヒー好きなので、すべての訪問家庭でコーヒーをいただくことにしている。もちろん、その他には一切手をつけない。
 第二に、教師の言ったことがどの程度ニュアンス通りに保護者に伝わるかをはかることができる、ということである。大抵の家では、保護者の方から「先生は濃~いコーヒーがお好きなんですって?」と、笑いながらコーヒーを出してくれる。これはこれでおいしくいただけばよい。しかし、中にはケーキと紅茶が出てきたりする家もある。こうした家では、間違いなく私の話が家庭の会話の中で出ていないのである。それほど罪のない言い方だからこそ、こうした日常的な会話の在り方をもはかることができるのだ。
 もう一つ例を挙げよう。
 一般に、家庭訪問ではプライバシーにあまり深く踏み込まない方がいいとされている。しかし、いわゆる母子・父子家庭の家庭環境の実態だけは是非ともつかんでおきたい。子どもに直接聞くにはデリケートな問題だからだ。ラポートがしっかりと取れた後ならともかく、年度当初ならばこれは保護者に聞いた方がよいだろう。ある程度、会話がはずんだところで、私は次のようにストレートに切り出すことにしている。
堀 ところで、失礼なんですけれども、○○さんは家庭環境調査によりますと母子家庭なんですけれども、お父さんは死別なんでしょうか、離婚なんでしょうか。
母 はあ、離婚です。
堀 本人はお父さんに会うことはあるんでしょうか。
母 はい、あります。時々ですけど。
堀 どのくらいの頻度ですか。
母 三ヶ月に一度くらいです。
堀 本人はお父さんのことをどのように言ってますか。お母さんの手前もあるでしょうけど……。
母 はい、ほとんどしゃべらないんですよ。
堀 まあ、その家庭家庭でいろいろでしょうけど、それはよくないかも知れませんね。精神的にも微妙な時期ですから……。お母さんが考えているよりも、中学生というのはずっと大人でいろんなことを考えていますから、機会を見て話してみるのもいいと思いますよ。
 こういう話はまじめにする。それまでが軽い調子だっただけに、保護者も大切な話なのだという思いで対応してくれる。こういうメリハリも家庭訪問では大切なことである。こういったメリハリをどうつけるのかも、「自己キャラ」を知って、初めて決まるのである。

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2008年10月 2日 (木)

「地域に学ぶ」への疑い

体調が悪くてずーっとバドミントンをしないでいたのだが、なんとも肩がこってしまい、さすがに運動不足が自覚されるようになってしまった。複数の病院に行って「異常なし」とは言われているものの、不整脈が出ていて循環器系の病気の可能性もあると思って激しい運動は控えてきた。しかし今日は、死ぬなら死ねと思って部活に行き、生徒とともに30分ほど汗を流した。ついさっきまでばりばりだったが右肩がほぐれている。なんとも心地いい。

ストレッチをしながら階段をあがると、廊下に「総合的な学習の時間」に関するポスターがある。いわく「地域に学ぶ」。地域の老人といっしょに、生徒たちが笑顔でゴミ拾いをする光景が撮られている。どこの生徒なのか知らないが、このゴミ拾いから、この生徒たちはどんな「地域に学ぶ」を経験したのだろうか。汗だくになりながらもそんなことを忘れて、はたと立ち止まってしまった。

「総合的な学習の時間」の導入とともに大々的に学校教育に取り入れられた〈地域に根ざした〉という名の体験学習。果たして現在、私たちは〈地域〉から何を学び得るのか。〈地域〉などいうものに学ぶべきものなどあるのか。そもそも〈地域〉とは何か。〈地域〉の土地のことか、人のことか、生活のことか、経済のことか、それとも歴史のことか。いや、「総合的な学習の時間」は、或いは学校教育はこれらを無目的にひっくるめて〈地域〉と呼んでいるのである。

しかも、そこにはあらかじめすべての地域にはその地域独自の〈特色〉があるということが前提されている。このこと自体は決して疑われない。本当にこの地域に〈特色〉などあるのかという問いは決して立てられることがない。自分の住んでいる地域の〈特色〉を知ることはその地域に〈誇り〉をもつことにつながる、地域に〈誇り〉をもつことは中間地域への〈誇り〉へとつながり国家への〈誇り〉へとつながる、国家・国民として〈誇り〉をもてば日本国民としての〈誇り〉を失うことなく、他者に対してもその他者の〈誇り〉を尊重する態度につながっていくはずだ、そしてこうした営みは必ずや〈国際理解〉へと発展していくはずだ、理屈としてはそういうことである。80年代以来、日本学を勉強してきたアメリカ人の方が俳句や狂言について詳しい、日本の教育は何をやっているのだ、真の国際理解教育は自国を知り誇りをもつことから始まるべきではないか、そんな批判が喧伝されたのを受けて出てきた短絡的な発想である。

例えば私は盆踊りが大好きで(踊るのが好きなのではなく、踊っている人たち、特に子どもたちを見ているのが好きなのだ)、毎年、町内会の盆踊りには犬を連れて必ず足を運んでビールと焼き鳥でへべれけになるのだが、しかしこのことによって町内会に愛着を感じると言うことはほとんどない。それは隣の町内会でも同じように行われていることであり、隣町でも、また更に隣の町でも同じように行われているはずのものである。子どもの頃、祖母がまだ健在で若かった頃、生まれ故郷のサロマ湖の町で見た盆踊りもまったく同じだった。別に私の住む地域に他と分かちがたいような〈地域の特色〉などない。

そもそも、日本人以上にアメリカ人が日本文化を知っていることが恥だと思うなら、何も大上段に「地域」などという曖昧なことを言い出さないで、俳句と短歌と川柳と狂言と歌舞伎と文楽と……を学校教育のカリキュラムにドンと入れればいいではないか。「話すこと・聞くこと」だの「書くこと」だの「総合」だの「選択」だのとあれほど騒いで、10年そこそこで「はいやーめた」とやるくらいなら、日本文化の形式美と粋な文芸美と世話物の人情味にでも触れた方がずっと生産的だったかもしれない。

もう一つ、私には譲れない思いがある。例えば、避難訓練に現役の消防士さんに来ていただいた折、彼はひと通り消防士として気をつけて欲しいことを生徒たちにはなしたあと、延々5分も「夢をもって生きて欲しい」なんていうことを語り出した。例えば、ある町内会長のご老人は町内会の構造的な位置づけと地域の町内会活動についてはなしたあと、「平和な社会に生まれたきみたちは幸せである」「若い頃はに悩めるということ自体が幸せである」「どんなに親しい人でも借金の保証人にだけはなってはいけない」とあっちに行ったりこっちに行ったりという話を延々と15分も続けた。言ってみれば、これが〈地域〉なのである。

この構造は簡単だ。テレビ番組から聞きかじった現代の子ども象の紋切り型で「生徒像」を想定し、テレビ番組で聞きかじった人間の在り方の紋切り型で「人生像」を想定し、自分が生徒たちの何かを変えられるのではないかと自己欺瞞・自己偽善・自己満足を得んがために、どこにでもいるおじさんがどこにでもある話をどこにでもあるしゃべり方で延々とお説教を展開するのである。これが〈地域の特色〉なのか。生徒たちも途中からうんざりである。

これがテレビでよく見るだれそれが言っているのであれば話は変わってくる。生徒たちは同じ話を聞いても生き生きとするだろう。うんざり顔などだれ一人見せずに、食い入るように話に集中するだろう。結局、現代人には、自分を日常的に取り囲む近景的な人々と、テレビで見ることのできる遠景的な著名人しか必要とされないのである。これは生徒ばかりではない。消防士さんや町内会長さんだって、彼らの話を聞く具体的な○○中学校の生徒に話をしたのではない。テレビで見た「金八先生の教え子たち」や「報道番組で見た現代を象徴する中学生たち」に話しているのであって、やはりそこには〈対・遠景〉があるのである。だから伝わらないし、だから見向きもされないし、だからうんざりされるのだ。そもそも彼らは「伝えよう」という心持ちさえほんとうは持ち得ていないのだ。

もちろん全国をくまなく探せば、千や万の独自の特色をもつ地域はあるだろう。しかし、そういった大文字の〈地域〉にある学校でない限り、実は「地域に学ぶ」という学習は成立し得ないのである。

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2008年10月 1日 (水)

議論の作法

代表質問。小沢一郎民主党代表が自らの代表質問、麻生総理の答弁が終わった時点で、15分ほど議会の席を立って休憩に行ったらしい。それに腹を立てたのか、ちょうど代表質問に立っていた細田官房長官が小沢代表の批判をNo原稿で始めたらしい。

いわく、小沢代表がかつて自民党から離脱した折、いっしょについて行き、現在自民党に復党している議員が15名いる。彼らは「もう小沢政治はこりごりだ。自由な自民党が一番いい」と言っている。こういう発言だった。ぼくはこれを、報道ステーションで〈編集された映像〉で見たので、前後の文脈がわからない。この番組はかなり際どい編集をすることで有名である。しかも、風呂上がりにビールを一杯、という見方でもあったので、発言するには少々心許ない情報で発言するのを知った上で書く。少なくとも映像として残っているのだから、この発言があったことだけは確かであるからだ。ぼくがいかに書く批判はそれだけで十分なのだ。

ぼくはこの発言は問題だと思う。ここで細田官房長官が批判しているのは「小沢一郎代表の人となり」であって、「民主党の政策」や「民主党代表としての小沢一郎氏の発言」ではない。これは国会の発言としてふさわしいのだろうか。「ここで中座するのは失礼だろ」と、小沢氏を瞬時に叱責したのであればまだ話はわかる。場の論理に規定された、「生もの」としての発言になるからだ。しかし、細田官房長官の発言はそうではない。90年代前半の、既に15年も前の出来事を話題に挙げ、その意味・意義の批判でもなく、小沢氏の言動に対する批判でもなく、かつて小沢氏の周辺にいた人物による伝聞によって、なんの論証もなく、人間批判をして負のイメージを喚起しようとしたのである。しかも国会で…。国会でである。しつこいようだが、いいですか? 「国会」でですよ。

公の会議の場でも他人にの人となりを批判することが許される…そんなコンセンサスがこの国でいつ得られたのか。

これが認められたら、地方議会も、会社の会議も、町内会の会合も、学校で言えば職員会議も学級会も、すべての議論の場が崩壊してしまうではないか。議論をする上での根本的な規範が崩壊してしまうではないか。

ぼくは別に小沢氏や民主党を支持しているのではない。自分の代表質問が終わった途端に休憩に入る小沢氏は責められて然るべきだし、細田官房長官が腹を立てるのもおかしなことではないだろう。しかし、しかしである。その問題と〈議論の作法〉の問題とは別の問題である。いくら腹を立てても、やっていいこととわるいことがある。公の会議というものは「言いたいこと」を言うのではなく、あくまでも「言うべきこと」をこそ言わねばならない。少なくともぼくは生徒たちにそう指導している。それが〈議論の作法〉である、と。

その昔、学校教育にディベートが盛んに導入され始めた頃、様々な批判があった。批判の仕方はいろいろあるが、要は二つである。①子どもが本当に思っていることではないことを、議論の練習だと言って主張させるのはおかしい、②ディベートで議論の練習をしても口先人間をつくるだけである、という二点である。

ぼくは現在ディベート教育に賛成の立場をとるけれども、ここでディベート教育の良さを主張するつもりはない。しかし、今週に入ってからの国会は、どうもこの二つの批判がまるまんま当て嵌まる議論になっているようだ。〈本当に思っていること〉を〈強い口調で主張すること〉が国会を盛り上げ、国民に政策を訴えることになり、活発で良い議論になる、という馬鹿げた風潮に縛られているのではないか、ということである。つまりは政治家が、〈本当に思っていること〉を言う口先人間に成り下がっているのである。それが相手の人となりを批判しても良いのだという空気を無意識のうちに作り出しているのではないか。言っておくが、今日の細田官房長官の発言は「批判」ではない。「非難」である。「人格に対する非難」である。小学校の学級会でさえ先生が絶対に禁じる、議論の前提の前提を侵しているのだ。公の議論における「禁じ手」を、恥じることなく、堂々と展開したのである

そして、何度も何度も繰り返すが、それが「国会」で行われたのだ。いいのか、これで。

一年前、昨今の子供たちには規範がない、学校教育が毅然とした指導を行えるように、そう教育基本法改訂に力を入れた首相が政権を放り投げた。そして今日、官房長官が小沢一郎という政治家個人の人となりを「国会」で非難した。彼らは自分たちが、国民の、そして子供たちのモデルになっているということを自覚しなければならない。

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学級内ステイタス

昨年、「いじめ」について、きわめて有益な提案がなされた。森口朗『いじめの構造』(新潮新書・2007年6月)である。この書が「いじめ」を考えるにあたって「スクールカースト」(学級内ステイタス)概念を中心に据えた点を、私は炯眼だと思う。

誤解を怖れずに言えば、世の中のすべてにおいて、人と人との間にはステイタスの差がある。どんな古くからの友人であろうと、どんなに社会的地位が同等であろうと、人と人との間にはステイタスの差がある。それは本人たちが意識しているしてしないにかかわらず、〈暗黙知〉として成立している。これを否定し、人間はみな平等であるとか、私の学級の子どもたちは互いに互いを認め合い尊重し合っているとか言ってみても、それは「スクールカースト」から目を背けているに過ぎない。人間関係においてそんなことはあり得ないのである。

例えば、読者諸氏に問う。あなたの職場に、職員会議において校長以上の発言力をもっている教員はいないか。大きな声でギャーギャー意見を言うタイプのことではない。ふだんの職員会議では黙って様子をうかがっているものの、会議がもめて収拾がつかなくなると決まってその教員が静かに語り出す。「まあ、あの先生がいうのなら仕方ない」と会議がまとまっていく。そんな教師はいないか。その教師は、明らかに「職員室内ステイタス」が高いのである。それも学校長以上に。

例えば、高校時代のクラス会がある。そこに中心的に話題を振りまいて、会話の輪の中心になっている同級生がいないか。明らかにその人を中心に大きな輪ができている。そんな人物はいないか。その人物は、明らかに「学級内ステイタス」が高いのである。かつてのそのクラスのだれよりも。

社会的地位や収入、成績の良し悪しなど、浮き世の価値観との相関がないわけではないが、必ずしもそれが重要ではない。もっともっと重要なのは「コミュニケーション能力」である。周りにいる人間たちを笑わせ、惹きつけ、いい気持ち、楽しい気分にさせることのできる能力、或いは周りに気を遣い、周りの悲しみや苦しみ、つらさを軽くしてあげられる能力、そうした「コミュニケーション能力」を持つ者こそがステイタス上位の人間である。

いま、学校の職員室とクラス会の例を挙げた。この二つの例を挙げたのには実は理由がある。この二つには、ステイタスが際立つ理由があるのだ。それは両者ともに、そこにいる人間のすべてが「平等である」という前提のもとに参集しているのである。

言うまでもなく、職員室はいわゆる「鍋ぶた組織」である。校長・教頭という鍋ぶたの取っ手に位置する二人がいるものの、その他の一般教員が圧倒的な数を占める、それが職員室である。つまり、管理職以上に一般教員の多くに影響力をもつ人間こそが、実は組織上もっている力が強い、それが職員室の構造なのだ。

また、クラス会は学生時代の平等性へと帰る機会である。一般に、社会生活においては上司・部下の関係を個人的な思いによって超えるようなことはあってはならない。それをした人間は社会から疎んじられ、悪くすれば抹殺される。しかし、クラス会は違う。その人間のもつ活力、器用さ、人となりの掛け合わせのみによって、その場の〈空気〉が形成されていく。そしてそれが顕著に表れるのがクラス会なのだ。

さて、以上を勘案してよく考えてみよう。その集団が外面的には「平等である」とされる集団、そしてその「平等性」を表だってこわさないように、ある種の人間関係力学が働きやすい集団、それは何か。言うまでもなくその最たるものは「学級集団」である。そして、この「学級集団」を実質的に動かしているステイタスこそ、森口の言う「スクールカースト」なのだ。こうした順位づけから、構造的に人間は逃れることができない。それが社会である。いや、イヌやサルが順位づけに躍起になっているのを見ると、すべての動物がもつ種の存続のための本能なのかもしれない。

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2008年9月30日 (火)

〈原罪〉と〈幻想〉

昨日今日と二日連続でわいせつ教師逮捕のニュースが流れた。「またか…」という思いを禁じ得ない。最近はこういうニュースにも少々慣れてしまったところがあって、ぼく自身も世論も感覚的に麻痺してきているようだ。さすがに去年の秋のように現役教頭となるとショックが大きいが(しかもあの事件の現場は札幌だった)、普通の、と言ってはなんだが、最近は一般的なわいせつ事件では驚かなくなってしまっている。そんなぼくでも、今回は二日連続の報道ということで少々驚いてしまった次第である。

今回は二件とも、教え子に対するわいせつ行為だ。一件は埼玉県の小学校教師(56)の小1女児へのわいせつ行為、もう一件は東京都の高校教師(52)の高3女子生徒へのわいせつ行為である。高校教師の方は論文指導と称してホテルに連れ込んだというのだからあきれる。

ぼくが今回このわいせつ事件について語ろうと思ったのは、実は二日連続で教師が逮捕されたことだけが理由なのではない。去年の現役教頭もそうだったが、今回の二人も年齢が五十代なのである。「五十路にもなってなんなのだ」というのは簡単だが、ちょっと考えてみようと思った。

ぼくは現在42だが、四十路を迎えて声を大にして言いたいことは、若い頃に漠然と感じていた「年齢を重ねるとともにアイデンティティが獲得され、次第に小さなことで頭を抱えたりくよくよしたりすることが少なくなっていくのだろう」という〈大人のイメージ〉はすべて嘘っ八だった、ということである。ぼくは15のときも25のときも35のときも、小さなことに頭を抱え、ほんの些細なことにもくよくよし続けてきた。そして42の現在も同様に頭を抱えくよくよしているのだ。

いま目の前にいるぼくの教え子たちも、もしかしたら大人になれば悩むことからも孤独感からも解放されるのではと幻想を抱いているかもしれない。しかし、ぼくらは彼らより少しだけ先の人生を歩む者として、「それは幻想だ。中年になったってその苦しみからは解放されないよ」と〈ほんとうのこと〉を語ってあげなければならないのではないか。むしろきみたちも経験してきた小学校時代とか、それ以前の幼少時時代のほうが悩みのない幸せな時間だったのだと。〈大人幻想〉は文字通り〈幻想〉だよと。15のときに「25になれば…」、25のときに「35になれば…」、35のときに「45になれば…」なんて未来に精神の安定を期待するのは、〈人生のからくり〉に過ぎないと。

そしておそらく、50になっても60になっても70になっても、この〈かにくり〉はまさしく〈からくり〉として機能し続けるのだろう。保護者を見ているとわかってくることがある。十代で子供を産んだ若い母親も、適齢期に子供を産んだ一般的な母親も、高齢出産でやっと子供を与ったという還暦に近い母親も、みんな子育てで同じように悩んでいた。いや、年齢が高くなればなるほど、悩みは深いようにさえ思えたほどである。それが現実だ。

おそらく今回の二人の教師も悩み戸惑いながら教員人生を歩んできたのだろう。56歳といえば全共闘に乗り遅れた世代である。52歳といえば足下から湧き上がってくる新人類世代におののいた世代である。いずれも世代的アイデンティティをもちにくかった世代と言われる。本当か嘘かはぼくにはわからない。しかしそういう実感を語る人間たちと同じ世代ではあるということだ。彼らはどこか時代に乗り遅れた、中途半端な世代なのかもしれない。

こういう決めつけに何の意味もないことをぼくも知っている。けれども五十代前半に心の病による休職者や自殺者が多い現実なんかを見ていると、彼らのメンタリティには、ただただバブルを謳歌した楽観的なぼくらの世代にはわからない、〈原罪〉のごとき感覚が巣くっているように見えるのだ。

そこに現れたネット社会、高度情報化社会である。ビデオもDVDもインターネットも、ある観点から見れば「人々がもともと持っていなかった欲望を、人々にもともと持っていたかのように錯覚させ、その錯覚的・幻想的欲望をどんどん拡大増殖させる」メディアである。去年のわいせつ教頭も含めて、模糊とした〈原罪〉意識を持ち、孤独で、世代アイデンティティが拡散しているおじさんたちは、 この構図にまんまと引っかけられてしまったのだろう。こんな構図に引っかけられて、この世界には存在しない〈幻想〉と自分の具体的な〈現実〉との狭間に生きるようになってしまったのである。「おじさんを愛してやまない女子高生」や「おじさんの躰をさわって性に目覚める少女」なんていう馬鹿げた幻想は、エロビデオとエロサイトの中にしかない。

昔から少女幻想は川端康成や谷崎潤一郎が描いてきたし、老いと性欲の問題は伊藤整や中村真一郎が描いてきた。しかし、彼らの行為にはそういった〈耽美的な性〉の欠片もない。「論文指導とラブホテル」にしても「小1女児に対する性的幻想」にしても、想像力というにはあまりにも表層的なレベルで構築されたインターネットや映像メディアによる負の産物である。比喩的に言えば、かつての「にっかつロマンポルノ」にあったロマンが欠落しているとでもいおうか(笑)。

この二人がそうだとは言わないが、ネットをはじめとする今日のメディア社会は、そうと自覚しないままになんとなく他人に流されながら生きてきた、免疫のない善良なおじさんたちを、次々に「性的欲求を増幅させ続けるエロじじい」や「小さな差違に敏感になったルサンチマンじじい」へと変容させていく。

いずれにしてもいい年にもなって馬鹿げた罪を犯してしまったのだから、法的には自分で責任を取り、法を超えたところに現れる家族や世間やなんやかやの取りようのない責任に怯えながら生きていくしかない。同情はしないが切なさは残る、そんな事件である。

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〈可能性〉の魔力

『いつまでもデブと思うなよ』(岡田斗司夫/新潮新書/2007.08.16)が去年の秋から今年の冬にかけてベストセラーとなった。私もデブなので、初めてこれを書店で目にしたとき、なかなか挑発的な書名だなと感動してしまった。「いつまでもデブと思うなよ」という挑発は、書店で目にしたデブさんに、「いつまでもデブではいない可能性」を想像させてくれる。しかも食べたものを記録するだけという手軽さが、「自分にもできるかも…」と、読者の頭の中の「可能性」を更に膨張させていく。私はこの本を読んでいないので、これ以上くわしいことはわからないのだが、おそらく「食べたものを記録すること」によって、記録する瞬間瞬間に罪悪感が醸成されていき少しずつ我慢を重ねることになる、その結果、急激なダイエットでもなく、苦行に耐えるようなダイエットでもない、現実的なダイエットが可能になるという提案なのだろう想像している。

さて、この本をベストセラーにしたのは、かつての「東大オタク学講座」の著者としての岡田斗司夫の人気でもなければ、食べたものを記録していくというダイエット手法の実現性がありそうだからでもない。おそらくは「私にもできるかも…」という、いわゆる〈可能性の魔力〉がその要因である。この書名の魅力はそこにある。

これが、「いつまでもハゲと思うなよ」では、絶対にベストセラーにはならない。デブには痩せる可能性があるが(実際には、多くの場合ほとんどないけど)、ハゲがフサフサになる可能性は天変地異でも起こらないかぎり不可能と見てよい。「いつまでもハゲと思うなよ」とカツラを勧めたり、増毛剤を毎日2回、3年~5年続けると効果が出ますといわれても、そこに読者は〈可能性〉を見出すことができない。少なくともそこに〈魔力〉はない。多くの読者にとってカツラは選択肢の枠内ではないし、増毛剤使用を継続する忍耐力が自分にないことなど多くの人が熟知しているからである。

この構図は、「いつまでもブスと思うなよ」と美容整形を勧めても同様だし、「いつまでもチビと思うなよ」と長身運動を勧めても同様である。ただし、成長期の子どもについてはこの議論の外である。

では、「いつまでもバカと思うなよ」ならどうか。成績が悪いという程度のバカなら〈可能性〉を想像できるかもしれないし、「バカの壁」的バカならもうちょっと無理…と判断されるかもしれない。いずれにしても、個々人の「バカ」という語のとらえ方次第ということになるだろうか。数十万とか百数十万の教材がある程度売れている現実を見ると、前者への幻想はこの国ではまだまだ衰えていないのかもしれない。

さて、学校教育である。

我々教師が、もしこの〈可能性の魔力〉を熟知して、子どもたちが「実現するかも…」と思えるような魅力ある〈可能性の魔力〉を提供し続けることができたとしたら、学級経営のマネジメントはとても簡単になるかもしれない。

いわく
「これで友人関係に悩まないでいられるよ」
「これで人気者になれるよ」
「これであの高校に入れるよ」
「これで学校祭ステージでスターになれるよ」
「これで合唱コンクールは優勝できるよ」
「これであの子とつきあえるよ」
「これでお母さんも納得するよ」
などなど……。

もちろんそれぞれの「これ」には具体的な手立てが入るわけだが、その手立てに必要な条件が4つある。

一つは、時間的にあまりに遠い話ではないこと。「今年は無理だけど、来年の合唱コンクールで優勝するために、今年は○○をやろう」「3年後に○○高校に入るには、毎日○○という努力を続ける必要がある」では、子どもたちは「ああ、たぶんそりゃ続かないや」と思うだろう。

二つは、手立てに具体性があること。「がんばれ」「やる気出せ」「テンション高く」といった抽象的な言葉は、現代人には通じない。現代社会で時代の風を真正面から受け止めて生きている子どもたちとてそれは同様である。「○○には3つのポイントがある。AとBとCだ。ただし、Bにおいては○○という留意点があるから気をつけるように」といった具体性が絶対に必要だ。これによって、子どもたちは頭の中で自分がその行為を行うことを想像しイメージ化することができる。これがない手立てはもはや手立てとはいえない。

三つは、「強いられる努力」と「得られる効果」とを比べたときに、想像される効果が想像される努力よりも大きいとイメージできること、である。例えば、昔のように血のにじむ努力をしてこそ試合に勝ったときの大きな感動が生まれるという論理は、いまの子どもたちには通じない。言葉では理解するものの躰がついていかないという現実がある。

四つは、ひとたびその努力が始まったら、それが継続できるように小さな刺激を与え続けるか、感動が増幅していくようなシステムをつくるかをしなければ、必ずいまの子どもたちは挫折するということが挙げられる。教師が提示した〈可能性の魔力〉が挫折する経験は、たとえそれがたった一度であっても、教師への信頼の崩壊につながる。その後は何を言ってもダメになる。多くの教師は初動で子どもを乗せることに成功したことに満足してしまう傾向があるが、それだけでは足りないのである。この点は強調しすぎても強調しすぎるということがないというほどに重要な点である。

要するに、〈可能性の魔力〉とは、あくまでも「経済効率」をはずさずにマーケティング理論的に「そうと気づかれない権力」(環境調整型権力)を発揮することを意味しているのである。フーコーの監獄理論の教育への意識的な導入、すなわちマーケティングなのだ。この観点をもたなければ、先日話題にした「教育のサファリパーク」なんかも絶対につくれない。

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2008年9月29日 (月)

子どもたちの〈学力〉と同じくらい教員の〈活力〉が低下している

「どうも仕事がおもしろくない」という声を最近よく聞く。

同世代から聞くだけなら「20年も仕事を続けていれば大なり小なりそうなるよ」と、要するに倦怠期だという解釈が成立するのだが、老若男女を問わず多くの教員からこの声があがっているのを見ると、単純に倦怠とか諦観とか、飽きたとか疲れたとか、そういう個人ベースの問題ではないような気もしてくる。教員にとって何かモチベーションを低下させるシステマティックな現象が起こっているのではないか、そう考え始めた。

教育界における今年一番の出来事といえば、普通に考えれば新指導要領の告示なわけだが、今年という年は前回の指導要領改訂で考えれば1999年にあたることになる。現行の指導要領が告示されたのが98年の12月だったから、実質的に告示によって影響を受け始めた1年は99年だったはずだからだ。あの年の盛り上がり方は、今回の改訂とは比べものにならないくらいエキサイトしていたことは記憶に新しい。「総合的な学習の時間の創設」「学校週五日制の完全実施」「選択履修枠の拡大」「心の教育の充実」などなど、あの指導要領のキーワードはどれ一つとっても、教員にとって、ドキドキ・ワクワクするにしても不安感・恐怖感を覚えるにしても、いずれにしても他人事としては捉えられなかった。

ところが今回の指導要領改訂は、週1時間授業が増えて「あ~あ、また放課後がなくなるなあ」という思いはあるものの、選択教科がなくなって「総合」が減り、要するに多くが従来の一斉授業形態に戻るわけである。ドキドキ・ワクワクもなければ不安感も恐怖感も皆無である。だって週2時間の「総合」以外は、普通に教科書を使って普通に授業をすればいいってのが見えてるんだから。学力テストの結果で学校間格差・地域間格差を明らかにするよとか、教員評価制度で給与格差をつけるよとか、今後おどされそうなニオイも漂ってくるけれど、「だからといってがんばろう」と思う教員なんて、ごくごく一部の、いわゆる「上を見ている人たち」だけだろう。いや、「上を見ている人たち」だって実際には、自分で切り開いていく能力のある人とイエスマンになって右倣えでついていくだけの人に二分されるわけで、更には後者が前者より圧倒的に多いのもあたりまえの話で……とまあ、なにもおもしろいことの起こる気配がない。

安倍内閣から福田内閣に移行して、世論の注目が「教育」に向かなくなった社会情勢も微妙に影響しているのかもしれない。讀賣新聞の「教育ルネサンス」なんてまったく注目されない状況が続いている。だいたい当の教員が読んでもおもしろくない記事の掲載がもう2年以上も続いている、という感じ。保護者によるクレーム、いじめ・不登校対応など、世論が盛り上がって学校も対策を講じるようになり、ある程度のノウハウが蓄積されてきて、よほどのモンスターでもないかぎり納得してもらえなくてこじれるという事態にも陥らなくなってきた。

簡単に言えば、政治もマスコミも保護者も現場も、教育に携わる者すべてが「下をなくす教育」を目指してきた結果、まずまずのところで妥協してしまい、学校教育から「活力」が失われてしまったのである。

つまりこういうことだ。

ここ10年ほど、教育は「○○のない学校」が目指されてきた。「いじめのない学校」「不登校のない学校」「学力が低下しない学校」「学級崩壊のない学校」「指導力不足教員のいない学校」「不適格教員のいない学校」などなど。その結果、「なぜいじめが起こるのか」とか「なぜ不登校が起こるのか」とか「学力を向上させるにはどうするか」とか「もっともっと学力を向上させるにはどうすればいいのか」とか「崩壊しない安定した学級運営の要素とは何か」とか「指導力不足教員や不適格教員の力量を高めるにはどういった研修の在り方がよいのか」といったポジティヴな議論が影を潜めてしまった。結局、「いじめ」や「不登校」の当事者にはただただ温かく包み込む振りをして目先を変え、学力低下はドリル学習や補講を重ねることでアリバイをつくり、指導力不足教員は担任をはずされ、不適格教員は懲戒処分で排除する、そういう手立てだけをとってきた感がある。こうして現場の教員は「これをやりたい」「あれをやろう」という発想を持ちづらくなり、意識的にせよ無意識的にせよ、「やらねばならないことを的確に処理すれば安全である」という態度をとるようになった。

しかし、これはあたりまえなのだ。「○○のない学校」というのはあくまでも「マイナスのない学校」に過ぎず、「○○のない学校」をいくらつくっても「いい学校」「プラスの学校」にはなり得ない。そこにあるのは「現状維持の思想」であって「向上的変容の思想」ではない。労働意欲というものは「労働条件(=給料や労働時間、必要とされる労力、出世など)」と「自分が役に立っているという実感(=自らの努力によって子どもたちが成長しているという実感、自分の努力によって学校がよくなっているという実感、自分の働きは上司から高く評価されているという実感など)」との掛け算で自発的に生まれてくるものであるから、もともと「労働意欲」と「現状維持の思想」とは折り合いが悪いのである。

最近、コーチングの世界で、〈マネジメント〉の定義として「つねに新しいこと」という主張が出てきている。「つねに新しいことに取り組み続けること」だけが〈マネジメント〉の安定を成立させるという趣旨なのだが、全国の校長もそろそろこういう在り方を意識し始めたほうがいいかもしれない。教員という仕事の魅力が安定した給料と世間知らずでもできる職業という二つしかないなんて悪口を言われるようになって久しいが、これでは人材も流出してしまうというものだ。活力のない組織、活力のない職種に人は集まらない。

最近、転勤を希望する教員が増えてきているのも、こういう事情が関与しているのだと思う。だって転勤すれば、一応新鮮な気持ちになることができて、個人的な活力だけは抱くことができますから。まあ、それも一年程度のことですけどね。

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2008年9月28日 (日)

前略、中山成彬様

おもしろいもので、中山成彬前国交相が批判したことで日教組が俄然注目を集め、その反論が注目され、ネット普及以来の検索の多さを数え、結局は日教組に追い風が吹いている。この流れの中で今後も中山前国交相が公に批判すればするほど、中山前国交相の意図に反して逆効果になっていくだろう。

しかし、(ぼくは組合員じゃないので言いづらいのだが、)まあ教職員の内部にいる人間にいる一人として言わせてもらえば、中山さんが考えているほど日教組にはもう力がない、と声を大にしたい。そんなにムキにならなくても、中山さんが「ぶっ壊そう」としなくても、先細りしていきますからご安心を。こういうふうに日教組に注目を集めることの方が、日教組にとってはかえってプラスになっているのではないか、そんなふうにさえ思える。

ただし、一つだけはっきりさせておきたいのは、教職員の「がん」は組合員か非組合委員かということとはあまり関係がないということである。非組にもひどいのはいっぱいいるし、組合員にも優秀なのはいっぱいいる。そんなのどこの組織でも同じである。○○という組織に属しているから優秀とか、△△という組織に属しているから優秀ではないなどということは原理的にあり得ない。

確かに日教組は法的に認められていないとはいえ労働組合だから、教員の労働条件を適正な規模にしようという運動はする。それがときに、「もっと楽にならないか」と適正規模を超えて労働条件を自分たちが必要以上に得をする方へともっていこうとする場合もあるだろう。しかし、そこは多くの人間が所属する組織である。「そこまでやっては世論の理解が得られないのでは」という政治的判断ができる人間や、「それは子どもたちにとってプラスにならないのではないか」という教育的判断ができる人間もちゃんといて、世論の動向をうかがいながら、行政との折衝でそこそこのところに落ち着くようにできているのである。

一方、非組側の人間たちの中にだって、子どもの側ではなく学校長や行政のほうばかりを見て、まったく教育的でない「学校内政治」ばかりにうつつを抜かしている輩もたくさんいるわけで、これなんかはその辺の組合員よりもずっと害悪を重ねていると言っていい。

結局、人間だれしも、自分のことを第一に考える。できるだけ楽な労働条件でできるだけ多くの報酬を求めたいという「自分のこと」もあれば、校長や行政にこび売ってでもなんとか早く昇進したいという「自分のこと」もある。なんのことはない、学校教育に限らず、「社会のがん」にならない人間というのは、その「自分のこと」を考えるときに、「子どもたちのため」とか「保護者のため」とか「同僚のため」とか「学校のため」とか「社会のため」とかも同時に考えて、自分が所属する共同体と「自分のこと」とのバランスをとろうとする人間なのだ。つねに頭の中で「自分のこと」と「自分を包む公」とのせめぎ合いをおこなっている人間、それを我々は「優秀な人間」と呼ぶのである。

そういう人間は組合員の中にもいるし、非組合員の中にもいる。言わなくても当然のことだ。そしてこれができない「社会のがん」だって組合員にもいるし非組合員にもいるし、もっと言えば校長や指導主事の中にもいる。そんなこと、人間の集団なのだからあたりまえのことなのである。

でも、そんななかでみんな頑張っているのだ。あの人は優秀だからこれだけやってもらわねばならない、あの人は能力的にそこそこだろう、あの人はちょっとポンだからみんなでフォローしなくちゃね、などなど、そうやってこの国の組織というものは動いてきたはずではないか。その組織構造はいまだって何も変わってはいない。そしてそういう国民性を我々はなんだかんだ言っても愛し続けているのではないでしょうか。

中山さんだって、その手の愛情をもっているからこそ「単一民族国家」なんて言っちゃうわけでしょ? ぼくは北海道に住む人間として、また小中学校時代にアイヌの友達と机を並べてきた人間として、こっちの発言だけは違和感をもたざるを得ません。「ごね得」発言はまあご愛敬でしょう。中山さんの辞任会見の開き直りだって、この騒ぎがおさまってしまえば「ごね得」になるはずですよ(笑)。

まあ、ぼくも組合やめてますから、そう言いたくなる気持ちはわからないでもありませんけどね。あんな上品な奥さんをおもちなのですから、どうぞお幸せに。

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〈味見授業〉と〈レシピ授業〉

だらだら週末。暇つぶしに録画しておいた「朝まで生テレビ」を見ていたら、珍しく辻元清美がおもしろい比喩を使っていた。金融政策を揶揄したものだが、新自由主義下での日本経済の状態は弱肉強食の「ジャングル」になった、かつての護送船団方式は「動物園」だった、もちろんどちらもダメなのだが、なんとか「サファリパーク」くらいの金融政策がしけないものだろうか、というのである。総論としてみな賛成だったのか、参会者はみな大笑いになっていた。

なるほどこの比喩は金融政策のみならず、現在のすべての分野の危機意識をあらわした良質な比喩である。教育を考えてもそうだ。

戦後教育は基本的に「動物園」だった。すべての子どもに社会生活の基礎となる学力を身につけさせ、日本の国力を上げるのだ、という政策である。これを均等化と批判するのは簡単だが、高度経済成長下で国民が日に日に豊かさを実感していく世相と相まって、多くの国民は満足していた。その証左は「一億総中流」と謳われた国民意識に顕著に表れた。しかし、人間の欲とは奥深いもので、下位層が中流層に昇った実感をもってしまうと、「もっと上」がいることが気になってくる。うちの子にもっと良質の教育を、という人が増えてくる。塾・予備校をはじめとする受験産業の隆盛が始まる。偏差値教育が始まる。管理教育が始まる。そして当然、マイノリティ側が「反偏差値教育」「反管理教育」を反動的に叫び始める。

ところが、80年代の臨教審依頼、日本の文教政策は国家が国際競争力をもつために、各産業が国際的に通用するような開発力をもつよう、科学技術をはじめとした「エリート教育」を進めようとし始めた。そのためには多少の規範の乱れはあったとしても、その中から輩出されてくる「超エリート」の育成こそ急務であると考えてきた。「ジャングル」を勝ち残るエリートを、である。その完成が、学校週五日制・「総合的な学習の時間」の創設を旗印にした「ゆとり教育」と称されるものだった。しかし、「ゆとり教育」とは一般受けをねらった造語に過ぎず、その実態は「できる子はもっとできるように、できない子は切り捨てる」という「エリート教育」への国家的転換であったことは古くから指摘されていた。「偏差値教育」「管理教育」に対する反動をうまくまるこめる、とても便利な用語だったのである。

さて、2000年前後の学力低下・学級崩壊の論議を経て、現在はゆりもどしの時代といわれる。社会に格差が生まれ、教育機会の均等さえくずされている。もちろん教育機会が均等であった時期などこれまで一度もないのだが、少なくとも「均等であった」と信じられていた時代があったことは確かなのだろう。その結果、もっと金を分配せよ、もっと学力保障を分配せよ、という世論が圧倒的になった。しかし、学校教育のシステムを「動物園」に戻すわけにはいかない。生徒も保護者も「動物園」システムに耐えられないほどには、うわべだけの「主権者」として、うわべだけの「消費者」として成熟してしまったからである。そうして世論は、各学校・各教員の「能力」を問題にし出した。うまく子どもたちを捌き、子どもたちの能力を発揮させられないのは各学校・各教員の能力の問題である、と。もちろん政治も、それに乗っかった。システムを変えることは政治の責任だが、各学校・各教員の能力の問題とすれば最低でも地方公共団体を、あわよくば教員個々人の努力の問題にすり替えることができる。

さて、そこで「サファリパーク」である。学校教育制度における「サファリパーク」とはいったい何だろうか。ある種のフレームを設定してその中では自由に、と抽象的に述べるのは簡単だが、具体的に有効なアイディアを出すとなると非常に難しい。

授業研究を例に考えてみよう。

一般に、実践研究する教員には二種類ある。一つは新しいアイディアを知るとすぐに飛びつき、深い素材研究、深い教材研究、深い学習者研究、深い授業課程研究もせずに、すぐに教室に持ち込み、実際に起こった現象から研究を進めようとするタイプである。成功すればいいが、半分以上は失敗して「ジャングル化」してしまう。ただし、成功すれば授業には大きなダイナミズムが生まれる。そういうタイプの実践研究である。いま一つは、なにがしかの新たな試みをする場合に、すぐには実践に移さずに、とにかく素材研究・教材研究・学習者研究・授業課程研究を徹底し、ある程度のパッケージになるまで授業にかけないタイプである。時間をかけて検討しているだけに大きな失敗はほとんどないが、深く分析され検討される過程で素材のダイナミズムは削ぎ落とされ、授業は「動物園化」しやすい。そういうタイプの実践研究である。私は前者を〈味見授業〉、後者を〈レシピ授業〉と呼んでいる。

では、少なくとも教員の実践研究における「サファリパーク」をどう構築するか。

〈味見授業〉は力量の高い一部の教員にとっては、たいへん魅力的な研究形態である。現在、「つねに新しいこと」がマネジメント成功への最も近道といわれているが、その点から考えても理に適っている。しかし、残念ながら、力量の伴わない後続の若手たちが勘違いをし、次々に新たな試みを導入しては捨ててしまい…と、結果的にまったく力量形成につながらないという例が多々見られる。結局、ベンチャー企業同様、教師格差を招いてしまっているのである。

一方の〈レシピ授業〉のほうはというと、旧態依然としたマネジメント感覚を前提としているために、一斉授業の勘所を得るという意味での若手の力量形成には秀でている。しかしながら、「冒険をしない」「新たな試みに慎重である」という態度は、実はモチベーションの維持が難しいという側面をももっている。その結果、若いときこそ先輩教師について研究実践に精を出すものの、自分が学級運営・授業運営に困らない力量をつけてくると足を洗ってしまう藻のが多くなる。部活動指導に熱心になったり、自分の趣味に夢中になったり、子育てを第一義に悪い意味での公私の切り離しといった状態に陥りやすい。その結果、著しい教師格差を生じないかわりに、仕事がルーティンワークとして意識されるようになり、「食うために働く」だけのサラリーマン教師になっていく傾向が強い。この手のタイプが研究実践を続けるのは、官製の研究団体が地域の出世構造と連動している場合に限られると言っても過言ではない。

簡単に言えば、若手教師を惹きつける〈味見授業〉の魅力と、確かな力量形成を保障する〈レシピ授業〉の安定性とを同時達成する授業研究システムをどうつくるか、それが実践研究の問題点なのだ。いちばんいいのは、amazonのような「あなたのやりたい授業はこれではありませんか?」「そのためにはこんな実践がありますよ、こんな本がありますよ、こんな研究団体がありますよ」「追試してみての感想をレビューとしてお書きください」なんていう、オープンソース型のデータベースでもできればいいのだろうが、なかなか難しいだろう。実現のためには行政が強制するか、TOSS-LANDのように閉じられた目的的な集団が行うかしか、モチベーションを維持させられないからである。

だれか目の覚めるような「サファリパーク-システム」を開発してくれないものかなあ。教師が老いも若きも一斉に活気づくような、目の覚めるようなシステムを。教師に活気が出れば生徒も活気づくし、生徒が活気づけば保護者のクレームも間違いなく減るんですけどねえ。そういう構造だけは今も昔もとてもシンプルなんですけどねえ。

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2008年9月27日 (土)

〈学級崩壊力〉に自信あります?

〈指導力〉〈授業力〉〈学級経営力〉〈コミュニケーション力〉まではまあいいとして、〈教師力〉〈学校力〉〈人間力〉〈老人力〉〈鈍感力〉と、なんでも〈力〉をつければ何かを新しいことを言っている、最近そんな風潮があります。

それなら私も。

〈KY力〉 … 敢えて空気を読まずに自己主張する力。成功すれば、自分が生きやすくなるような新しい空気をつくることができる。
〈オタク力〉 … 皆が理解できないような独特のものに興味関心を示し、他を顧みずに執着する力。理解者を少しずつ増やしていくことで新たな流行をつくれる可能性がある。仮につくれなくても、全国に散在する同じ趣味の人間たちで、2ちゃんねるに独特のコミュニティをつくることができる。いずれにしても幸せになれる。
〈アナーキー力〉 … 常に無法地帯、無政府状態にする力。どうすれば混乱するかを考えているうちに、システマティックに混乱させることを考え始め、結局、アナーキーではなくなる。
〈再チャレンジ力〉 … 失敗にめげずに再チャレンジする力。再チャレンジして成功し、時がたってまた失敗。更に再チャレンジ。この力がつけばつくほど、たとえ成功してもまた再チャレンジしたくて、わざと失敗するようになる。
〈セーフティネット力〉 … 弱者やマイノリティをすべて救っていこうとする力。どんな弱者・マイノリティが存在するか、つねに目を光らせ、ことごとく救っていく。そのうち、国民の労働意欲がなくなっていく。ハングリー精神が死語になり、オリンピックも弱くなっていく。

冗談はこれくらいにして。

さてさて、教師のみなさん。〈学級崩壊力〉に自信あります?

〈学級崩壊力〉 … 新たな学級を担任したとき、迅速かつ的確に〈学級崩壊〉の状態を形成する力。

これ、力量のない教師より、力量のある教師のほうが迅速かつ的確に学級崩壊を起こせそうですよ。だつて、力量のある教師なら、何が子どもを荒れさせるか、何が子どもの意欲をなくさせるか、よくわかってますもの。

力量のない教師は、学級を長く安定させることができないだけじゃなくて、学級を早く崩壊させることもできないわけです。

私なら、次のようにしますね。

1.給食のおかわりをある子どもには認め、ある子どもには認めない。しかも、認めない言い方は激しく強くいう。認める子どもがちょっとやんちゃな子、認めない子どもがおとなしめの子なら、なおいい。
2.3日くらいたったら、前回認めた子には厳しく認めないといい、前回認めなかった子には「勝手にどうぞ」という。
3.最初の給食からこんなことをやれば、4月の第三週には、間違いなく、晴れて学級崩壊するでしょう。

1.初めての掃除当番のときに、勉強のできない子を教卓の横に座らせ、熱心に勉強を教える。
2.他の子どもが「なぜ、その子は掃除しないのか」と訊いても、「掃除より勉強の方が大切なんだ」と答える。
3.掃除の仕方について子どもに何か訊かれても、「自分で考えなさい」という。
4.これは給食よりはちょっとインパクトがなくて、4月第四週の崩壊かな。

1.帰りの学活で日直が「次は先生のお話です」と言ったのに対し、「特に話はありません」とチャイムも鳴っていないのに子どもたちを教室から出す。
2.他の先生に「こら!まだチャイム鳴ってないだろ!」と怒鳴ってもらう。
3.それに対して、自分も「なんだ!勝手に出やがって!」と怒鳴る。
4.これを3日続ければ、間違いなく3日で崩壊します。

まだまだアイディアはありますが、今日はこのへんで。

要するに、〈学級崩壊〉を迅速に起こすということは、〈日常の学校生活〉の象徴をいかに強烈に壊すかということなのだ。とすれば、裏を返せば、〈学級崩壊〉を起こさない学級経営というものは、いかに〈日常の学校生活〉をシステマティックに構築するかということなのである。一瞬の盛り上がりをねらう「打ち上げ花火」が好きな教師ほど〈学級崩壊〉を起こしやすい。「打ち上げ花火」で学級経営するには、一年分の花火、つまり200連発の花火が必要なのである。そんなことは凡人の業ではない。

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〈PISA型読解力〉ってなに?

学校現場では、〈PISA型読解力〉が大流行である。学校教育を構成する中心的要素として〈読解力〉が位置づけられたのだから、当然といえば当然。

よし!しからば私もひとつ、真剣に考えてみよう。

と思って思考すること30秒。とたんにつまずいた。うーん、これは先に進めない…。

浮かんだ疑問は基本中の基本、「〈PISA型〉ってなに?」である。

もちろん私も、〈PISA型〉の〈PISA〉がPIZZAのことなどでなく、OECDの学習到達度調査の国際比較であることくらいは知っている。その〈読解力〉の問題が文章を基本とした〈連続型テキスト〉と、図表その他の〈非連続型テキスト〉との二種類からなることだって知っている。これまでの3回の調査で、日本の子どもの〈読解力〉の順位が少しずつ落ちてきていることだって知っている。

私がつまずいてしまってのは〈PISA〉ではない。〈型〉の方である。

〈PISA型読解力〉という用語を用いたのは、かの秀才集団「文部科学省様」である。官僚の使う用語は一言一句、無意味ということがない。うーん、〈型〉ってなんだ?

こういうときは、なにはともあれ広辞苑。

 … ものを類に分けた時、それぞれの特質をよく表した典型。そのような形式・形態。タイプ。パターン。「ハムレット-」「流行の-」

ふむふむ。なるほど、〈型〉とは「典型」であり「形式」であり「形態」であり「タイプ」であり「パターン」であるわけだ。わかったようなわからないような。これらの語も調べてみると、「特徴を最もよく表しているもの。模範」とか「うわべに現れた形。外見」とか「作品を構成する諸部分の配合の仕方」とか、これまたわかったようなわからないような。

よし、ここは文脈をいじって独自思考。接尾を変えてニュアンスの違いを考えてみよう。

PISA的読解力
PISA然とした読解力
PISAの読解力
PISAな読解力

こりゃだめだ。よけいにわかんなくなる。

もう一つ。

PISAfulな読解力…なーんて言い方もできるかも。

要するに、こんなふうにいろいろこねくりまわしてみるのが、〈PISAful〉なんですなあ、きっと。

ん?

〈PISAtic〉ってのもあるなあ。〈PISAtic〉ってのは……もういいか。やめよ。まじめに考えてる諸先輩に叱られそうだから。

こんな私が、1ヶ月後に十勝研修センターで〈PISA型読解力〉の講座をもちます。なんと2時間半。十勝のみなさん、是非来てください。

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2008年9月26日 (金)

〈いじめ指導〉の逆説

子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」である。これが「いじめ認定」の原理だという。何日か前に、この認定原理について批判的に述べたので、今回はその対策について考えてみようと思う。

子どもが「いじめられた」と感じれば、「いじめ」であると認定する。この認定原理の中で、多くの教師は何をするか。間違いなく「悪口ダメ」「いじりダメ」「人を馬鹿にしちゃダメ」「乱暴な言葉遣いダメ」「人を無視しちゃダメ」「ひそひそ話はダメ」「人の方を見て笑っちゃダメ」……などなど、ダメダメ指導のオンパレードになる。

中には、「あの子が私のほうを見てひそひそ話をしていた。私はいじめられている。」という訴えを聞いて、教師が確認してみると、ひそひそ話の話題はちょっとエッチな話。まったくその子のうわさ話などではなかった。こんなことがよくある。そんなときさえ、教師は「人前でこそこそと話をするから、そんな誤解を受けるんだ。」などと指導せざるを得ない。しかし、少々エッチな話をするくらい、別に罪ではない。だいたい、エロ話を堂々と大声でするようになるとすれば、それはそれで問題になるはずだ。

また、こんなこともある。これまで仲の良かったAとBが、つい先日、口喧嘩をした。その日以来、二人は口をきかない日々が続いている。数日たって、Aには次第にそれが寂しく思われてきた。ところが、一方のBにとっては、その喧嘩はもうAとはつきあわないと決意するほどに決定的な出来事だった。ある日、Aが、Bにあやまろうと思って話しかける。しかし、Bは応じない。Aに背を向けて、最近になってよく話すようになったCとともにどこかに行ってしまった。Aは担任に訴えた。「私はBにいじめられている。Bが私を無視している」と。果たしてこれは「いじめ」だろうか。両成敗されるべき口喧嘩に過ぎないのではないか。しかも、Bが今後もAとつきあい続けなければならない理由など何もないのである。
 子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」である。

「いじめ」の認定方法をこのように決めてしまうと、上のような事例でも、いじめ被害を訴えた側が必要以上に保護され、いじめ加害を訴えられた側は必要以上に悪者にされる。確かに、いじめ被害の訴えから「いじめ」が発覚し、いじめ加害生徒に指導することによって大きく発展するのを防いだという事例はたくさんある。しかし、学校現場の中には上のような事例も、数限りなくあるのだ。

なぜ、教育現場は、或いは教育行政は、更には教育関係の識者まで含めてだが、いじめ被害を訴えた子どもをただちに保護し、即座にいじめ加害の子に毅然とした指導を、という論調ばかりになるのだろうか。それは、いじめ被害を受けている子のみに立って主張することが、自分の身を守ることになるからではないのか。深く考えることもせず、データを分析することもなく、ただ自らの安全だけを考えて思考停止の言説をふりまいてはいないか。

よくよく考えてみて欲しい。

もしも本当に、子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」であるというのであれば、逆に、もしも相当深刻な「いじめ」であるのに、その子が鈍感で「いじめ」だと感じていなければ、それは「いじめ」ではない、ということになってしまうのである。この場合は、指導しなくていいのか。いま、すべての子どもがいじめをしない学校が目指されている。いわゆる「いじめ撲滅運動」である。しかし、「いじめ撲滅」にはもう一つ手立てがある。すべての子どもが「いじめられた」と感じない強い子どもになる学校である。

そんなことは無理だ、という声が聞こえてきそうである。しかし、だれもいじめない学校と、だれも「いじめられた」と感じない学校は、どちらがどのくらい実現が難しいだろうか。

答えは簡単だ。どちらも同じくらいに難しいのだ。

とすれば、「いじめ被害」を訴えた子を絶対善とするような一面的な見方だけをしないで、「そうそうのことではへこたれない子どもを育てる」といった教育も、もう少し真剣に考えられてもいいのではないか。

私は何も、子どもが「いじめ」を「いじめ」と感じないように鍛えるべきなどと主張したいわけではない。ただ、「いじめ」指導をただ単に被害・加害の関係のみに還元してしまわないで、一度、「いじめではない程度の悪ふざけをいじめとは感じさせない教育」という逆説も視野に入れてみてはどうか、と言っているのである。もちろん、それだけやればいいというのではない。また、そんな教育が現実的にあり得るのか否かも、いまの私にはわからない。しかし、一考の価値はあると思うのだが。いかがだろうか。

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2008年9月25日 (木)

変わり者のにおい

「ヤマ場CM」という語をご存知だろうか。ドラマの見せ場やクイズの解答直前でパッとCMに切り替わる、アレである。番組のキリのいいところで流される「一段落CM」と区別して、こういうのを「ヤマ場CM」と呼ぶのだそうだ。見ている側としてはイライラする。イライラしないのは「もう少し考えたいなあ」と思えたときのクイズ番組くらいか。

この「ヤマ場CM」について興味深い調査がある。日本は欧米に比べて「ヤマ場CM」が圧倒的に多いというのである。ちなみに、日本での「ヤマ場CM」率は40%程度。これに対し、アメリカが14%、イギリスが6%、そしてフランスはなんとゼロなのだそうだ。

しかし、これだけならばそれほどのインパクトはない。日本の広告主が商業主義的であるとか、視聴者を惹きつけるための工夫に余念がないとか、利潤追求を旨とする企業としては当然のことと思われるからだ。

実は、この調査の面白いところはこのあとである。横行する「ヤマ場CM」に対して、日本の視聴者の実に86%が「不愉快」「イライラする」と感じており、しかもそのうちの多くが「ヤマ場CMの商品は買いたくない」と答えているというのである。簡単に言えば、企業がよかれと思って工夫していることが、かえって視聴者(延ては消費者)の反感を買っているということになる。〈以上慶応大学・榊博文・2006/『グーグルが日本を破壊する』竹内一正・PHP新書・2008.04・孫引き〉

その昔、授業を「ヤマ場」で切るという手法をためしていた時期がある。一番いいとき、これから面白くなるとき、つまりそれまでの謎がいよいよ解決する、そんなときに、「じゃあ、続きは次の時間ね」と授業を終えるのである。私としては、授業内容に対するモチベーションとはどのくらい続くのか、或いは続かないのかということに関心を抱いてのことだった。

私がこんなことを始めたのは92年か93年頃のことだったと記憶しているが、当時の生徒たちは、休み時間にサッと私の周りに集まり、「ねえねえ、なんなの?」「私にだけ先に教えて」などとしつこく問いただしたものである。次の日の朝、廊下ですれちがったときに、「先生、昨日のあれですが…」などという生徒さえ珍しくなかった。

これが通用しなくなったのが、2000年頃だったろうか。いや、通用しなくなったというのは語弊がある。私がこれを始めた頃だって見向きもしない生徒もいたし、現在だってまったく問いただしてくる生徒がいないわけではない。この手法に食いついてくる生徒は、現在もそれなりに存在する。しかし、食いつく生徒が明らかに減っているのである。それも激減と言っていいほどに。

更に、私にとってもっと不思議なのは、90年代前半には、学級のリーダー的存在を中心に、ごくごく普通の感覚をもっているように見える生徒が食いついてきたのに対し、現在は、「この子は皆とちょっと異なった独特の感性をもった子だな」と思われるような生徒が食いついてくる、ということである。

おそらくこの20年で、社会を包む「空気」に圧倒的な変化が生じたのである。私が教職に就いた頃には、学校が様々に批判されながらも、まだまだ「勉強は先生に教えてもらうもの」というテーゼが世の中を支配していた。生徒たちもその「空気」の中に生きていた。それが90年代の半ばから後半にかけて、風が変わり始めた。いや、風が変わったのはもっと前で、この時期に完全に浸透し始めたということなのかもしれない。いずれにしても、学級リーダーは「よく先生の話、先生の意図を理解する者」から、「他人を巻き込みながら、自分で選択する者」「他人に対して、自分への興味関心を喚起できる者」に変わったのである。

この変化はおそらく、時代の象徴的企業が、充実したPCを提供することにこだわり続けたマイクロソフト社から、人々の興味関心を把握してそこに関係性を結んでひと儲けしようとするグーグルへと変わったことと、どこか対応しているように思える。最近、先生が大好きで、「先生の話を理解しよう」「先生の意図を理解しよう」とする生徒には、どこか「変わり者」の匂いさえ感じられる。教師が普通の生活を送っていて感じるほどだから、生徒たちはもっと敏感に感じているはずである。

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2008年9月24日 (水)

人の振り見て我が振り直せ

子どもが「いじめられた」と感じれば、それが「いじめ」だという。とうとう教育行政までもが、この定義を採用し始めた。わたしはこの定義には問題があると思う。

子どもが「いじめられた」と感じれば、それは「いじめ」である。では、子どもが「いじめられた」と感じた事実を、保護者や教師はどうやって知るのか。当然、子どもが「いじめられた」と訴えることによって知る。ということは、このテーゼは、子どもが「いじめられた」と言えば、それは「いじめ」だ、というのと現実的には同義となる。小学校低学年ならまだしも、十歳前後になれば「嫌いなあの子を困らせてやろう」くらいのことは考えられるようになる。このテーゼは原理的に、意地の悪い鬼っ子に金棒を与えてしまったことになるまいか。

もちろんそんな鬼っ子など滅多にいるものではない。しかし、少数ではあるが確かに存在するのも事実。現在、40人学級と言われているがそれは制度上のこと、現実の学級は平均30人前後である。30人の中にもしもそんな鬼っ子が一人いれば、学級は間違いなく大混乱に陥る。なぜなら、担任が「きみは、本当はいじめられてなどいないのではないか」と問いただすことを封じられてしまったからである。しかもその訴えを真に受けて、名前のあがった「いじめっ子」被疑者たちに、「おまえ、○○をいじめただろう」と迫ることもできない。「教師はつねに子どもと信頼関係を結ぶことが大切です。そのためには子どもを信じ、決して一方的に疑ってはいけません。」というのも、これまた学校教育を縛りつけている大前提のテーゼだからだ。

では、実際、学校はどうするか。まずはじめに、いじめ被害を訴えた子どもに、「あなたは悪くない」「先生がなんとかするから安心しなさい」と包み込むことになる。次に、いじめ加害として名前のあがった子どもに「こういう訴えがあるのだが……」と事実確認をすることになる。ここで「はい。いじめました。すいしませんでした。」となればいいのだが、そんなことはまずあり得ない。少なくともわたしの20年近い教師生活では一件もなかった。複数の目撃情報を集めてなんとか口を割らせたという場合が7割、最後まで否定し続け、学級に対する一斉指導で抑止力を効かせたという場合が3割、現実はそんなものである。

しかし、これはまだいいほうで、多くの場合、いじめ被害の訴えは「報復が怖いので加害者をあからさまに指導しないでほしい」という要望とセットで行われる。結果、いじめが起こらないようにと、教師はいじめ被害を訴えた子どもに見守り続けることになる。つまり、その子につきっきりになる。「見守る」とか「安心感を与える」とか言い方はいろいろあるが、要するに監視するわけだ。だって、もう一度、「いじめられた」なんていう訴えがあったら大変ですもの。今度は、学校が「いじめ」と認定し手立てを打っていたにもかかわらず起こった、とんでもない「いじめ」になってしまいますから。学校の指導は甘かったのではないか、学校は子どもとの信頼関係を築けているのか、学校の指導が適切でなかったから報復が行われたのではないか、そういう声があがってくることになる。

ひとたび「いじめられた」という訴えがあれば、学校はすぐに動き出さねばならない。しかも適切に対処し、必ず指導を成功させなければならない。いじめられた子を「あなたはいっさい悪くない」と包み込み、いじめた子たちには「なぜいじめがいけないか」を諭して聞かせる。しかもそこには、彼らを心から納得させ、反省させなければならない、という大前提がある。それができないのは教師に力がないためだ、指導が適切ではないからだ、という大前提である。

みんながそう考えている。マスコミも政治家も、銀行員さんもお医者さんも、みんながそう考えている。そうして教師も、そのように考える〈振り〉だけがうまくなっていく。ここ数年、滝川・福岡・稚内から学校教育が学んだのは、こういった猿芝居の演出だけなのではないか。

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2008年9月22日 (月)

第二世代に向けて

「教育技術の法則化運動」は〈物語消費〉論(大塚英志・角川文庫・1989年)の教育運動としての具現化であったというのが、ここ数年来の私の持論である。

「今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。」

大塚はこうした時代認識から、かの「ビックリマンチョコレート」を時代のエポックとして捉え、自身の1980年代論の象徴的題材として論述する。1987年から88年にかけて子どもたちの間で爆発的に大流行し、市場を席巻した「ビックリマンチョコレート」は、それまでの菓子商品の常識を覆した。それは一言でいえば、チョコレートという商品本体とシールというおまけが逆転しているからである。それまでも、グリコのキャラメルをはじめとして、おまけつきの菓子商品は決して少なくはなかった。しかし、「ビックリマンチョコ」は二つの意味において、それまでのおまけ付き菓子商品と一線を画していた。

第一に、先にも述べたように、商品とおまけとの逆転である。グリコのキャラメルは、「一粒三百メートル」というキャッチコピーに象徴されるように、あくまでも商品本体はキャラメルであった。もしも商品本体がおまけならば、キャッチコピーはおまけに関するフレーズで構成されていたはずである。また、キョロちゃんでお馴染みの「チョコボール」は、「金のエンゼル」「銀のエンゼル」によって「おもちゃの缶詰」が当たるという、特典によって商品本体たるチョコレートを売ろうとする企業戦略であった。このように、それまでの菓子メーカーは、あくまでも「おまけ」を付属品の特典として考えていたのである。しかし、「ビックリマンチョコ」は異なる。商品本体は、あくまでもシールである。メーカーはあくまでシールで売り上げの拡大を図ったのである。たまたまこれを商品化したメーカーがお菓子メーカーであったために、お菓子の流通ルートに載せざるを得なかったに過ぎない。その結果、「ビックリマンチョコ」を購入した子どもたちは、意識としてはあくまでもシールを買っていたのであり、付属品のチョコレートは惜しげもなく捨てられるという逆転現象が起こったのである。

第二に、「ビックリマンシール」が既成のキャラクター商品によって付加価値を付けるのではなく、メーカーが開発したオリジナルのキャラクターであった、という点である。それまでにも、商品たるお菓子が捨てられ、おまけだけが必要とされた商品は確かにあった。例えば、「仮面ライダースナック」や「プロ野球スナック」である。あの「仮面ライダーカード」や「プロ野球カード」を付けたヒット商品である。しかし、これらは「仮面ライダー」にしても「プロ野球選手」にしても、あくまでも既成のキャラクターをパッケージにあしらい、付属品のおまけとしてカードをつけたものである。それがスナック菓子の付加価値として機能したに過ぎない。しかし、「ビックリマンシール」は違う。完全にメーカーの開発したオリジナルキャラクターなのである。それまでこうした例は、せいぜいサンリオのキティちゃんがあった程度であり、少なくとも男の子向けの商品としては皆無だったのである。つまり、「ビックリマンシール」は、原作なきキャラクターであったわけだ。

以上、二つの意味で、80年代後半に大ヒットした「ビックリマンチョコレート」は、時代のエポックたるにふさわしい商品だったわけである。加えて、この商品が時代のエポックとして象徴的であるのは、次のような商品の構造を持つ点にある

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせてみると、漠然とした〈小さな物語〉─キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の─ が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

こうしたキャラクターシールは、大塚によれば全部で772枚あったそうである。子どもたちはコレクションが一枚増えていくごとに、これまでのコレクションによって見えていた〈大きな物語〉を適宜修正し、「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)に近づいていく。そしてまた一歩近づきたいがために、また新たに「ビックリマンチョコ」を幾つも買う。さらに購買意欲がそそられる。「ビックリマンチョコレート」には、まさにこうした構造があったのである。子どもたちがこぞって買っていたのは、チョコレートでもなければキャラクターシールでもない。実はキャラクター解説が少しずつ明らかにしていく〈大きな物語〉であった。こうした構造を大塚英志は、「物語消費論」と名付けたのである。  この「物語消費論」の構造は、アニメ業界で既に80年代前半に大ヒットを飛ばしていた。例えば、「北斗の拳」や「機動戦士ガンダム」である。

「北斗の拳」は、拳が敵を倒すたびに新たな敵(拳の使い手)を紹介され、その敵に挑むという構成を取り続ける。しかも、新たな強い敵になればなるほど、拳の知りたがっている謎(=世界観)により近づいていく、という構造をもっている。子ども達、いや、大人までもが「北斗の拳」に熱狂したのは、キャラクターの美しさや拳のヒロイズムばかりではない。謎だった世界観が少しずつ明らかになっていく、その構造こそが牽引力として機能していたのである。

一方の「機動戦士ガンダム」はもう少し複雑である。私は「機動戦士ガンダム」を見たことがないので、詳しいことがわからないのだが、大塚によれば、「ガンダム」の一話ないし一シリーズのアニメは、「ビックリマンチョコ」のシールに相当する、断片的な商品に過ぎない。

「この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能をこの時代の科学力にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的に描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。この〈設定〉が多ければ多いほど、一話分のドラマは受け手にとってリアルなものとして感知される。そしてこれらの一つ一つの〈設定〉は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、〈設定〉が積分された一つの全体を〈世界観〉とアニメメーションの分野では呼びならわしている。

これが明らかに、「ビックリマンチョコ」と同じ構造をもっていることはおわかりだろう。「機動戦士ガンダム」は、当時の子ども達にとって、〈表向きの物語〉のみならず、その裏に隠されている「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を統合していこうとする意欲こそが、アニメーションに熱狂する牽引力となっていたのである。

しかし、これだけのことならば、さして特筆すべきことではない。近代日本に成立した「私小説」の伝統は、個人体験の一つ一つから「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を見ようとしたのであり、無数の「私小説」を読み続けた読者達は、新たな作品を読むことによって、また一つ〈世界観〉に近づくことができたという満足感を得ていたはずである。日本の近代文学はこの構造を基本としていたのであり、むしろ、「私小説」的手法に対抗して、ただ一つの〈世界観〉を捏造し、そのバリエーションとして作品を描き、読み続けた「団塊の世代」こそが特異な存在であったのだとも言える。

しかし、「ビックリマンチョコ」や「機動戦士ガンダム」は、この「私小説」的伝統とも一線を画す。読者のみなさんは想い出さないだろうか。「ビックリマンチョコ」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを、教室で脇目もふらずにデザインする男の子達の姿を。また、「機動戦士ガンダム」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを熱狂的にデザインし続ける、「おたく」と呼ばれた同級生達を。彼らは決して、単にオリジナルのキャラクターを創造していたわけではない。「ビックリマンシール」から、或いは「機動戦士ガンダム」から〈世界観〉を読み取った者達が、自らその〈世界観〉を構成する新たなキャラクターを模倣的に創造していたのだ。

それはこういうことだ。「ビックリマンシール」の772のキャラクターすべてを集めてしまった子ども達は、「ビックリマン」が提供する「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)をすべて把握してしまう。その〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達にとって、772枚に及ぶ個々の「ビックリマンシール」は、〈世界観〉と整合する772の小さな小さなドラマに過ぎなくなる。つまり、〈世界観〉を構成する極々小規模な要素に過ぎなくなり、「〈大きな物語〉の全体像」即ち〈世界観〉を追い求めて、次々とシールを購入していた時代と比べて、その価値は相対的に低くなってしまうわけだ。相対的に低くなるというよりは、もはやどん底に近づくといった方が当たっているかも知れない。

そうした場合、新たな〈世界観〉を提供する「ビックリマンシールⅡ」が出れば良いのだが、772ものキャラクターが、一つの〈世界観〉をもって、ネットワークを結んでいる商品を、メーカーもそう簡単にはつくることができない。そこで、この「ビックリマン」の〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達が始めたことが、その〈世界観〉に整合する773人目のキャラクターを自ら創造することだったのである。そして、その773人目のキャラクターが774人目のキャラクターを呼び、そこにキャラクター相互の関係(抗争だの裏切りだの)が生まれていく。また、その関係を解決すべきキャラクターとして775人目のキャォラクターが必要となる。そうすると、ここに新たな「小さな物語」が出来上がる。しかもそれは、「ビックリマンシール」が提供した「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)と密接な関係性を保持するとともに、完全な整合を得ている。こうなると、これらの模倣的創造品が「偽物」とは言い切れなくなりはしないか。あの子ども達や同級生達の熱狂ぶりは、まさに商品開発に参画しているという主体意識だったのである。

さて、ここで、かつての「教育技術の法則化運動」の運動方針を見てみよう。

1 この運動は、二十世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う。
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。

注目していただきたいのは、この運動方針の1と2である。

「教育技術の法則化運動」に参加する教師は、まず運動内部の実践報告を「集める」。それを次々に「追試する」ことによって、自らの実践として位置づけていく。こうした中で、それぞれの実践報告同士の関連について思考し、場合によっては「修正する」。こうした営みを続けながら、全国で次々に開発されていく新たな実践報告の集積・追試・修正を繰り返していく。これら一つ一つが、強大なネットワークを形成していく。

おそらくこの営みの原動力となったのは、当初は〈大きな物語〉(=〈世界観〉)に到達したいとの欲望であり、自らが実践を開発するようになってからは、〈大きな物語〉(=〈世界観〉)と密接な関係性をもつとともに完全なる整合を示している、自分自身の〈小さな物語〉の創作だったのである。「法則化運動」に参加する教師たちのメンタリティは、独自のキャラクターデザインに熱狂するあの子ども達と同様のものである。

おそらく深澤久の「命の授業」も、そして「マル道」も、若き「法則化戦士」のこうしたメンタリティの中から生まれてきた。言わば、「法則化亜種」である。

私は批判的に言っているのではない。彼らよりもひと世代若い世代で構成され、私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナー」も、同様のメンタリティにおいて、好むと好まざるとに関わらず「法則化亜種」として存在していることを自覚している。

しかし、「道徳改革集団」が、或いは我々「教師力BRUSH-UPセミナー」が、「法則化亜種」から脱却し、新たな教育理念と新たな運動理念のもと、新たな志をもって活動していこうと考えるならば、かつてグーグルがマイクロソフトを食い破って情報世界を席巻したような、ドラスティックなシステム転換が必要である。

「道徳改革集団」と「教師力BRUSH-UPセミナー」の協力関係を模索したい。

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2008年9月20日 (土)

〈自立〉と〈依存〉

 かつて二年間かけて、〈すごい学級〉をつくったことがある。三十代前半の頃のことである。

 〈すごい学級〉といっても、崩壊学級のことではない。文字通り〈すごくいい学級〉である。生活態度はいい。いじめはない。体育大会、合唱コンクール、球技大会、旅行的行事の学年レクなどなど、行事にはすべてこれ以上望めないという熱心さで取り組み、とにかく順位のつくものはすべて優勝。二年の四月、学級結成時には六学級中最下位だったテストの学級平均も、三年の一学期にはトップに立った。私は生徒からも保護者からも信頼が厚く、やることなすことすべてうまく行く。そんな学級に、私は大きな満足感を抱いていた。

「卒業式で涙を流すなどもってのほかだ。卒業式とは凜として臨むもの。泣くのはあとでいい。」

 私の言葉を彼らは真正面から受け止め、卒業式では涙をこらえ、最終学活で合唱コンの優勝曲を二曲、涙声をしみじみと響かせた。 私はその日、
「こんないい学級はもう二度ともてないかもしれない……」
 そう思っていた。

 いまでも、二年に一度の割合でクラス会がある。私という担任が彼らに「中学校」というものを強く印象づけたのは確かである。

 当時の私は、ちょうど、単行本の執筆依頼をいただいたり、研究会提案や講演の依頼をいただいたりし始めた頃で、ノリにノっていた。私はこの学級の成功に「学級経営の勘所も会得したな」などと思い上がったことさえ考えていた。

 しかし、彼らが卒業して一年がたった頃、私はこの学級経営が失敗していたこと、しかも大失敗であったことに気づかされることになる。なんと、高校一年生の一年間に、実に四○名中七名の生徒が不登校に陥ったというのである。

 第一報は五月だった。ゴールデンウィーク明け、私のところに卒業生のA子から電話がはいった。

「高校に入学してすぐ、いじめを受けるようになった。担任の先生に訴えたが、何もしてくれない。」というのである。私は彼女を慰め、励ましながら、「なんという高校か」「なんという担任か」と憤りを感じていた。「入学早々のいじめごときをつぶせずして、それでも教師か」と。次は七月、B男とC子である。B男は「いじめられている」と訴え、C子は「なんとなくクラスになじめない。高校になじめない」という。私はやはり憤りを感じていた。「担任に力量がないからだ」と。と同時に、いまだに中学時代の担任に相談する彼らに、なさけなさもまた感じていた。

 しかし、二学期に入り、四人目のD子が出たとき、私は気づかざるを得なかった。「これは高校の責任ではない。他でもない、私の責任だ……」と。自分が中学二、三年の担任として、生徒たちに「新たな環境に対応する力」、大袈裟にいうなら「社会を生き抜く力」を育てなかったからだ、と。

 思えば、私の学級経営の要諦は、生徒たちのすべてを完全に私の支配下に置くことにあった、と言っていい。人間関係トラブルがあれば私が間に入ってすぐに解決し、学級組織も私の意図通りに動かした。行事は私が先頭を切って場を盛り上げて生徒たちの意欲を喚起し、練習の仕方・ものづくりの方法、すべて私が教えた。家庭学習ノートを全員分用意し、定期的に点検し、わからないところがあると言われれば、自分の教科ではなくても放課後に指導した。一年生のときのいじめられっ子とは、昼休み・放課後に将棋を指しながら信頼関係をつくり、粗暴な問題傾向生徒は私がいじることによって「いじられキャラ」へと変容させていく。こういう学級経営である。

 生徒たちは高校に行って、「いじめられた」と感じたり、「学級・学校になじめない」と感じたりした。言うまでもなく、中高生のいじめの対象となるのは、〈その場の空気を敏感に察知して対応すること〉のできない者たちである。彼らは中学時代、少なくとも学級において、〈場の空気〉を読む必要がなかった。自分が〈空気〉を読まなくても、担任がいち早く〈空気〉を察知してだれも困らないように先手を打ってくれるのである。彼らは〈空気〉を読まなくても、私という担任さえ見ていれば、私の言うことさえ聞いていれば、学級に〈居場所〉を確保することができた。それもかなり満足度の高い〈居場所〉を。彼らは在学中、他の学級に羨まれ、他の先生方に褒められ、行事は常に優勝することに鼻が高くなっていた。それは、おとなしめの女の子や少々おたく傾向をもつ男の子にも少なからず見られる、堀学級生徒の特徴だった。

 もちろん、全員が全員、このことがマイナスに機能したわけではない。もともとある程度の「自己」をしっかりもっていた生徒、ノリのいいコミュニケーションを得意としている生徒、いまどきのパワフルな女子生徒といった者たちにとっては、私という担任は様々なことを教えてくれ、集団を率いるときのコミュニケーション・モデルとして機能したはずである。しかし、そうしたリーダーシップ、統括力には縁のない生徒たちにとっては、明らかに私の学級経営はマイナスに機能していたのだ。行事の優勝も、様々な褒め言葉も、すべてが〈その場だけの楽しさ〉に堕してしまっていたのである。

 長久保裕(日本フィギュア・スケーティング・インストラクター協会副理事長)は常々、「自分以外のいい先生を探してやるのも、先生の大事な仕事のひとつなんですよ」と言ったという(「スポーツ名伯楽が語る教育と指導の奥義」阿部珠樹/「文藝春秋」2006年11月臨時増刊・111頁)。

 学校教育に限らず、〈教育〉の目的を端的に言うなら、それは「自立」である。担任も、部活指導者も、親でさえ、その子を一生支えながら生きていけるわけではない。言うまでもないことだ。〈教育〉とは、子どもを「自分で生きていけるようにする営み」なのである。だからこそ大切なのであり、だからこそ尊いのだ。

 このことに気づかない、考えたこともない、そういう教師が増えてきている……そう感じているのは、私だけだろうか。いや、おそらく教師だけではない。保護者も、マスコミも、行政も、政治も、このことを忘れ始めている。

 まずい。大変、まずい。

 最後に、今回、私が述べた構図と、ほとんど同様の構図について述べた、ある精神科医の言の引いておこう。読者の皆さんにも、思い当たるところがあるのではないだろうか(『「普通がいい」という病』泉谷閑示・講談社現代新書・2006年10月・30頁)。

「精神療法やカウンセリングの場面でついついセラピストは、クライアントの悩み・苦しみをどうにかしてあげようと、自分の考える答えを教えたくなってしまう。しかし、それはクライアント自身の、葛藤を持ちこたえる力を育てないどころか、自分自身で答えを見つけ出す力を退化させてしまい、セラピーへの依存を作ってしまうことに なります。/ちょっと「脚が痛い」と言っているからと、リハビリすれば十分歩けるようになる人に車椅子を提供するような治療やカウンセリングほど、治療者の方では、すごく治療してあげているような自己満足を感じるものです。しかし、これが大きな罠なのです。治療熱心な治療者ほどこの失敗に陥りやすいのですが、治療者自身が患者さんに「治 療依存症」を作る元凶になっているこ とに気付かない。ドラマの「赤ひげ」よろしく、私生活をほとんど犠牲にして、それで自分はたくさんの患者さんの役に立っていると密かに満足をしている。でも患者さんはなかなか治らないものだから、患者数だけがどんどん増えて、どんどん頼りにされて、忙しくなる。その治療者はこれまた密かに、自分の腕が良いので繁盛していると錯覚する。こういう困った悪循環もよく見られます。」

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2008年9月18日 (木)

部活動顧問の責任

 昨日、高松高裁で我々教師にとっては看過できない判決が出された。96年8月、大阪府高槻市で行われた高校サッカーの大会中の落雷事故によって傷害を負った生徒とその保護者が、引率教諭・生徒在籍高校・大会主催者を相手取って6億4600万円の損害賠償を求めた裁判である。高松高裁は三者の注意義務を怠った過失を認め、3億7000万円の損害賠償の支払いを命じたというのである(ただし、この判決は最高裁の差し戻し審であるから、高松高裁独自の判断ではなく、いわば最高裁判決である)。

 私は別に、この落雷事故にあった生徒や保護者を責めたいわけではない。大変気の毒なことだし、治療費やリハビリにかかる費用、そして精神的・肉体的に受けざるを得なかった被害を考えれば、これでも安いとさえ感じるだろうと思う。私が「看過できない」という対象は、事故被害者ではない。私が言いたいのは、ここで提訴された顧問同様、部活動の顧問を務める者の一人として、この判決のごとき「リスク」は負えないな、従って部活動の顧問を降りるしかないな、ということである。

 つまり、こういうことだ。部活動は内部から見れば、つまり学校に勤めている教師から見ればボランティア、生徒や保護者から見れば学校教育の一部、そういう中途半端な、微妙な位置づけにある。簡単に言えば、法的に整備されていない、世の中の矛盾の一つなのである。その部活動に対して、公務、すなわち公の学校教育と同様の責任をもたされることが決まった、簡単に言うと今回の判決はそういうことなのだ。生徒や保護者には申し訳ないが、我々教師にとって、この判断だけは納得できない。

 これが公務中の事故ならば、私はまったく異論がない。例えば、私は明日、生徒111名を引率して、学年行事として円山動物園で校外学習を行うことになっている。この校外学習中に円山動物園に落雷があり、私の管理下において生徒に障害の残るような事故があったとする。この場合、私は自分が提訴されても仕方がないと思う。損害賠償請求に対し、家その他の財産を売却しても、誠意を示さねばならないと思う。私はその責任を自覚して仕事をしている。しかし、部活動はこれとは異なる。部活動は私の給与の対象ではない。しかも、私は部活動の顧問を務めるにあたって、一銭の現金も受け取っていない。部活入会時に生徒が支払う会費から顧問に支給されることになっている30000円の受け取りを私は拒否している。これをもらう謂われがないと考えているからだ。札幌市が市費で部活顧問に年間7000円弱の現物支給を行うことになっているが、私はこれもバドミントンのシャトルを購入して生徒に還元している。部活動というものが給与の対象ではなく、従って「仕事」ではなく、あくまでも「善意」でやるものだと考えているからである。ただただ生徒かわいさの「善意」によって時間と労力を割いている、それが部活動なのだ。

 例えば、大学出たての新卒教員が学級担任をもつとする。これは「公務」である。従って、このとき、この若い学級担任に対しては学年主任がフォローする責任をもち、生徒指導主事がその学級の生徒指導に学級担任同様の責任をもつことになる。つまり、その学級はA先生という若い担任の学級でありながら、実はその先生だけの学級などではなく、学年団を構成する教師、生徒指導部の教師、そしてもちろん管理職と、みんなで責任をもつ、そういう構成、そういうシステムになっているのである。従って、学年主任も生徒指導部長も管理職も、そのA先生の学級運営に難点があれば責任をもって指導もするしフォローもする。これが「公務」というものの当然の在り方だろう。

 しかし、部活動は違う。学生時代に運動などしたことのない新卒のB先生が、赴任した学校の学校事情によってルールも知らない競技の部活動を担当するなどということはざらにある。しかもこういう練習方法がいいよ、こういう練習の方が効果があるよ、こういうところがまずいよ、という指導・フォローを与えてくれる人間はほとんどいない。そもそも、その競技の専門家が学校にいないからこそ、専門外のド素人が顧問になっているのである。指導・フォローをする能力をもっている教員がいるなら、その人が顧問になるはずではないか。

 さて、このB先生がもつことになった部活がサッカー部だとしよう。大会があって、生徒たちを引率したとしよう。試合前に雷が鳴り、試合を中止した方がいいのではないかと思ったとしよう。しかしこのとき、B先生に大会主催者に対して「中止しよう」と進言することが果たして可能だろうか。いや、仮に進言したとして、それが受け入れられることがあり得るだろうか。そもそもこの大会の運営において、現実的にこの先生に発言権があるだろうか。今回の判決は、こうした中でも、事故が起こった場合には、責任だけは学校・主催者と並んでとらされるということなのである。少なくとも、そうした判例が出てしまったということなのである。私たちとしては、この論理は受け入れられない。「権利」のないところに「義務」と「責任」だけをかぶせられても困る、というのが本音である。

 私は現在、バドミントン部の顧問だが、その公務外の立場以上に重要であり、給与の対象ともなっている、学年主任・学級担任・教務部という公務上の立場がある。放課後に会議と部活動の練習があれば必ず会議に出る。生徒指導と部活の練習があれば必ず生徒指導を優先する。部活動とは、こういう法的に何の根拠もない、昔ながらの「なあなあのシステム」として位置づけられているのである。このような部活動顧問という立場に、公務と同様の「義務」と「責任」を課せられるとするなら、それは自分を守るために「部活をもたない」という判断をせざるを得ない。私にだって家族もいるし、生活もあるのだ。しかも、部活というものは当然のことながら、その性質上、公務以上に事故の起こりやすい環境なのである。ボールが飛び交い、バットやラケットがフルンブルンと振られ、時には人を投げたり、人に投げられたりする。それが部活なのだ。これは個人が責任を負える範囲を超えているのではないか。

 こうした矛盾を解消する手だてはいくつかあるだろう。まず考えられるのは、部活顧問に「責任」を負わせられるように正当な指導費を支払うこと、である。しかし、そんな財政的裏付けがあるはずもない。受益者負担と言うことになれば、現在、年間3500~4000円に設定されている部活動参加費は20~30倍程度にはせねばなるまい。これも現実的には無理だ。とすれば次に考えられるのは、部活動を公務に位置づけること。つまり、ちゃんと給与対象にすることである。この場合には、部活顧問を学級担任と同じような位置づけにしなければならなくなる。つまり、主幹・教務主任・生徒指導主事・進路指導主事・学年主任など要職に就いている者には部活はもてない、おそらくは学級担任をもっている者にも部活はもてない、ということにしなければならなくなるだろう。放課後に会議を入れないか、会議のある日は部活動は中止ということにせざるを得なくもなるだろう。おそらく勤務時間を超えての指導は残業手当の対象にもせねばなるまい。結局、これも無理なのだ。要するに、学校の教員を大幅に増員しなければ両立しないのである。これも財政的に無理なのだ。では、どうするか。どうしようもない、というのが結論である。

 かつて、こういう事件があった。買い物に行くために、ある主婦が仲のいいお隣の主婦に我が子をあずかってもらった。しかし、あずかった主婦がちょっと目をはなしたすきに、その子が池に落ちて死んでしまった。母親はその主婦を相手取って損害賠償請求の訴訟を起こした。裁判所はあずかった主婦の過失を認め、賠償を命じた。新聞報道でそれを知った人たちが何人も、子どもを亡くした母親に批判的な電話をしたり手紙を書いたりし、この主婦は精神を病んでしまった。結局、示談が成立したのだが、子をあずけた主婦も、子をあずかった主婦も、お互いに精神的にも肉体的にもぼろぼろになってしまった。ずいぶんと大きく報道された事件だから、覚えておられる方も多いと思う。確か私が小学生だった頃の事件だ。私がいま感じている矛盾は、この事件がはらんでいた哀しさに似ている。

 いずれにしても、私は次年度から、部活動の顧問は絶対に引き受けないことを決意した。今回の判決は、私には看過できない。

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2008年9月15日 (月)

私の授業を支える表の五冊・裏の五冊

【表の五冊】
 私が国語の授業をつくるにあたって影響を受けた本は、数え上げればきりがない。また、私はどちらかというと、教育技術を紹介した本よりも、国語科教育の理念について述べた本の方から影響を受けている。いわゆる授業技術や授業のネタに関しては、教育書よりも一般書から得られたものが多い。言語技術はビジネス書、文学教育は文芸批評書や思想書、授業のネタは乱読の文庫や新書というように。今回は読者諸氏に役立つようにとの思いから、私に少なからぬ影響を与えた本の中で、①いまも手に入りやすい、②国語科を専門としない小学校教師にとっても絶対に役に立つ、この二つの観点で五冊を選んでみた。

『論理的思考』宇佐美寛・メヂカルフレンド社・1979年2月・1900円
 筆頭は宇佐美先生である。この本は、教師なら絶対に読んだ方がいい。
 「論理的思考」という書名からはなんとなく固いイメージを受けるだろうが、決してそのような内容ではない。むしろ、子どもの作文、子どもの意見をどう読み取るか、自分が子どもに対して表現するときには何を気をつけるべきなのか、そうした教師としての教授行為そのものについて深く反省させられる、そういう本である。比喩的に言えば、『授業の腕を上げる法則』(向山洋一・明治図書)と同内容のことを、授業よりも広い視野で語っている、といった趣の本である。

『国語科教材分析の観点と方法』大内善一・明治図書・1990年2月・2370円
 いろいろなところで紹介してきたので、古くから私とつきあいのある方々からは「またか…」と言われそうだが、この本は絶対におすすめである。教材研究ができないと悩む小学校教師は多い。自分にも教材分析ができたなら、もう少し国語の授業を楽しく、有意義なものにできるはずだ、というわけである。私も多くの小学校教師からそういった相談を受けた。
 しかし、簡単に言えば、そうした人たちには絶対的な「知識」が足りないのである。「経験」を重ねるだけでは限界がある。「知識」を得て、目的的な「経験」を積んでこそ、教材研究ができるようになるのだ。この本はたった220頁で、ここで言う「知識」の総体を示してくれる。これを読んで「知識」を得、3年から5年の「経験」を積めば、教材研究ができるようになることを、私が保証する。

『「詩の技法」をどう教えるか』小海永二監修・言語技術教育学会長岡支部著・明治図書・1997年10月・1600円
 詩人の小海永二が監修し、長岡の「読み研」グループがつくった良書である。
 中学校一年生に授業をしていていつも思うことは、小学校で表現技法がほとんど指導されていないということである。それで一年生の一学期が表現技法の指導中心になってしまう。十年前の私はよくそれに腹を立てていたものだが、いまは「そうか。小学校の先生方は、表現技法とその効果を知らない人が多いのだ」と思うようになった。国語を専門としていなければそんなものなのかもしれない、と思うようになったわけだ。
 そこで、この本である。この本には、小学校から高校までに習うすべての表現技法が載っていると思っていただいていい。「詩の技法」という言葉が書名になっているが、詩の読解にしか使えないというわけではない。表現技法の体系を学びたいという人におすすめである。

『絶対評価の国語科テスト改革・20の提案』堀裕嗣・明治図書・2003年6月・1900円
 私は自分の本を人にすすめるということをまずしない人間だが、国語科の指導事項とは何かが、割とうまくまとまっている本だと思う。私の国語教育本を一冊だけ買うとすれば、『全員参加を保障する授業技術』でもなく、『発信型授業で「伝え合う力」を育てる』でもなく、これが一番いい。
 この本は、私の十年間に及ぶ言語技術研究の成果を体系化した本である。書名から「テストづくり」の本のように思われているが、そうではない。言語技術体系の本である。「話すこと」の言語技術を二十、「聞くこと」の言語技術を二十、「書くこと」の言語技術を二十、「音読」の言語技術を十、というふうに全七十技術に絞って提示した。また、文学的文章教材・説明的文章教材の指導事項についても、段階的に説明した。たぶん類書のない本だと思う。『義務教育で教える言語技術のすべて』といったタイトルならもっと売れただろうに、と今でも後悔している(笑)。

『国語教育指導用語辞典 第三版』田近洵一・井上尚美編・教育出版・2004年六月・4000円
 意外と意識されていないことだが、授業研究をしようとすれば辞典が必要である。研究グループをつくって「ああでもないこうでもない」と経験を言い合っているうちに授業ができていく……というのが一般的なようだが、それでは「研究」とはいえないだろう。使用する語句もめちゃくちゃ、歴史的な背景も踏まえていない、これでは教師として少々恥ずかしい。
 国語教育に関する辞典の類はずいぶんと出ていて、私は二十種類程度もっているが、その中で内容的にみても汎用性からみても、これが一番いい。これが一冊あるだけで、国語科の授業にずいぶんと深みが出ると思う。

【裏の五冊】
 こちらは教育書ではないけれど、国語の授業に直接的に役立つ、という観点で五冊選んでみた。

『文学の力×教材の力』田中実・須貝千里編・教育出版・2001年6月・各2400円
 田中先生や須貝先生はこれを教育書だというだろうが、内容的には文芸評論である。ただし、書名に「教材の力」とあるように、論じられているすべての作品が教科書教材である。しかも、第一巻の「理論編」の他に、第二巻から第十巻まで「小学校一年編」~「中学校三年編」まである。つまり、教科書掲載の文学的文章教材のほとんどについて、作品論が二編ずつ載っている、そういう本である。新しくその教材にはいるとき、ちょっとそこだけ読んでみると、教材解釈を飛躍的に深める、そういう使い方も「あり」である。

『教師のための読書の技術』香西秀信著・明治図書・2006年3月・2060円
 これは明治図書の本ですし、書名に「教師のための」とありますから、教育書なのでしょう。しかし、読書の在り方を書いた本としては秀逸です。内容的には一般書に近いと思います。香西先生ですから、内容的には少々固いです。

『あたりまえなことばかり』池田晶子・トランスビュー・2003年3月・1800円
 国語科教育の勘所は、言葉を読んで言葉について考え、物事をひっくり返してみることです。この本はその「ひっくり返す」の宝庫です。内田樹にひっくり返されて喜んでばかりいないで、この本でも読んで自分の頭でひっくり返してみましょう。

『学力の社会学』苅谷剛彦・志水宏吉編・岩波書店・2004年12月・3200円
 八○年代から「学力とは何か」を考えることが流行し続けていますが、それとともに、学力を規定する要因を考えてみてはどうでしょうか。この本を読むと、それを考えずにはいられなくなります。

『おおきな木』シェル・シルヴァスタイン・本田錦一郎訳
『二十四の瞳』 壺井栄・新潮文庫
 最後に、僕が教師になるきっかけになった本を二冊。僕は、教師は決して「おおきな木」になってはいけないとは思いながら、この物語にどうしても感動してしまう。そして、なんだかんだ言っても、教師の理想は小石先生なのだと感じてしまうのだ。

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